憲兵が見てる
人間界にはマナーとかモラルとか言われるものがございまして、
私も気付けば、知らず知らずのうちにマナーをしっかり守っていたり、
又、守れていなかったりすることがあるものです。
私自身は、マナーやモラルと言うことに対してはさほど厳しい人間ではないのですが、
やはり、自分自身が持つ「基準値」を逸脱した人間を目の当たりにすると、
少々苛立ちを感じてしまいます。
自分自身の愚人へと成り下がってしまった頭の中を悲しく思います。
マナーやモラルと言われるものは、社会性、つまるところ社会生活を重視するが故の、
素質や能力のようなものではないか、と私は思うわけです。
それが欠落した人間、それを身につけようとさえしない人間は、
現代の社会に於いて生活するのを困難にしてしまいます。
道徳や倫理などは必要なスキルとなるわけです。
私もどちらかというと欠如側の人間であることは否めない部分ではあるのですが、
欠如していない部分、即ち正道を歩んでいることも少なからずあるわけです。
つまり、多数派の見解を私自身がしていると言うこと。
一概にそれが正しいとは思いませんが、
社会生活を円滑に進めるためには、そういったことを身につけざるを得ないかなぁ…なんて。
頑なにアウトローを気取るより、その方が都合がいいのです。私にとっては。
モラルが無いが為に周りに注意されたり、白い眼で見られたりと言うのが、
正直面倒くさいのであります。
それにいちいち対応していたら、自分の時間がいくらあっても足りねぇよ、てな感じです。
だから私はマナーを守る。
「意志を殺して人間社会に没した愚民」と皆さんは私を卑下することでしょう。
私は待っているのです。
私自身が社会を変えるその日を。
私の本当の姿は勿論マナーなど無視する、モラルの欠片も無い男です。
只、私の求める社会とは、モラルもマナーも、そもそもの概念が無い。
多数決を取れば、必ず100対0の社会。つまり多数決など無い。
人間が自分1人ならいいのに…
そう思うことも屡々あるほどに、意見や思想の相違に敏感になってしまっています。
なので、私が感じる「マナー違反」を目の前で平気な顔してかまされると
愕然としてしまいますし、落胆してしまったりもするわけです。
切符売り場でフォーク並びを推奨し、実践しているところに平気で割り込んできたり、
電車内をひたすら行ったり来たりしたり、
ATMが一台しかないのに、30分くらい振り込み→失敗の繰り返しだったり、
ミーティング中に一人だけ菓子をバリバリ食らっていたり、
まじめな話してるにもかかわらず、しゃくれてたり。
あ!
と思う訳なのです。
しかし私は注意はしません。
何も言うことはありません。
『他人に注意をするときは、それなりの覚悟を以て注意せねばならぬ』
この志の元に私は生活をしているのです。
意味が分からないと思いますので、少々説明させて頂きます。
注意をすると言うことは、自分の意志を相手に伝える手段、
且つ、それを強要する、若しくは促す手段です。
自分の世界だけの見解で物事を判断した、と言うことになるのです。
それは、ひじょうに危険な行為であるように思うのです。
と言うのも、もし注意を促した相手が、それをせざるを得ない立場であったらどうするか。
例えば病気や症候群であったら。
心が疲れきってしまい、常に笑顔になってしまった人間に、
「ヘラヘラすんな」と注意をするということは、その相手のことを何も分かっていないのに
勝手に自分の意志を強要したということになってしまいますね。
風邪をひいてしまい、発熱のためボーッとしている人間に、
「とぼけた顔すんな」と注意をしても同じ事ですね。
相手の立場、状態などはお構いなしで、
自分が気にくわないから注意した。
危険なことです。
その注意の延長上には戦争があります。
私も社会生活に於いて注意を受けることが屡々ありますが、そう言ったときは
「宗教上の理由で、こうせざるを得ません」
と言うようにしています。
相手はそれ以上何も言いません。
「勇み足だよ、よく考えてから発言して」と心で相手に伝えます。私は注意を口に出しません。
イスラム教徒に「好き嫌いするな」と豚肉を食わせますか?
嗚呼、幾多数多の秩序の元に
内的飽和の余りあるものぞ
ノルマンディー上陸作戦に於いて、
ロンメルは上陸地点をノルマンディーと予測していました。
アドルフ・ヒトラーがもしもその意見を聞き入れていれば、歴史は変わっていたのです。
そういうことです。
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