極東最前線

Tuesday, February 14, 2006

ループ

苦しみを『苦しみ』と認めることも試練。
悲しみを『悲しみ』と認めることも試練。
欲望を満たすための課程に生じる憤りも試練。
疲れ果て、又立ち上がることも試練。
何があろうが耐えることも試練。
解らないことも試練。

大事なのは距離や時間ではなく、内容なのです。

今日まで、私はこの『極東最前線』と言うBlogの中で、
自分に対して様々な問題提起をしてまいりました。
その内容は森羅万象のあらゆる事象の中の、ごく一部にしかすぎません。
私が今現在生きているこの場所、世界、宇宙には未だ見ぬ出来事がたくさんあります。

そんな中で、様々な出来事に対して問題提起をしていた私は、
一つの憤りがありました。

「疑問が起きないくらいに解っていない」

と言うことです。
疑問が生じるときと言うのは、その出来事の体験の中で生じるものです。
見たり、実行したり、経験を踏むことで、その内包物を分解し、
中を垣間見ることで不思議に思い悩む行為が即ち疑問となるのです。
つまりは知らないこと(見たことも聞いたことも感じたこともないこと)には疑問そのものが生まれてこないと言うことなのです。

私は世界のほとんどの事を知りません。
今現在、日本の裏側で何が起こっているか、
出会う人間の考えていること、
出来事や、人。植物や物質など。
世界は様々な出来事や感情で構成されているにも係わらず、
私はそのほとんどを知らないのです。

何も解っちゃいないのは私だったのですね。
日々悩み、藻掻き、苦しみ。
いちいち落胆していたのですが、それは森羅万象の一握りにも及ばない、
計り知れない程にリトルな事だったのです。
世界が狭いのは私だったのです。

何が解らないのかも解らない。

自分自身に論破される羽目になるとはね。
やれんよ。

そこで、全てを知っているものが居るとどうなるのかを考えていきたいと思います。
完全な憶測で書きますので、反論その他一切の意見は受け付けません。
私だって憶測で書いているので自信なんかありませんよ。
敢えて書くのです。自信がないにも係わらず。
それがニュースタイル。


例えば、他には誰も居ない荒野で全てを知り尽くした物(人じゃなくてもいいのです。植物や物体でも。)に出会った私が居たとします。
対面するそれは、私に対して何もしてきません。
話しかけることも、目を合わせることも、触れることさえもしてはきません。
只々押し黙って、遠くを見つめています。
否、何かを見つめていると言うよりは、空間そのものに焦点を合わせているような、
どことなくぼんやりしている佇まい。

私はそれの周りをグルグルと周回するのですが、
それは一向に私に関心を示すことはありません。
何故でしょう。私には理解しかねます。
私に興味が無いのでしょうか?
それとも、全てを知っているが故に、こうして私を気に留めないのでしょうか?
だとすれば、私はいったいこれに何をするのでしょうか?
別段、破壊したいとか持って帰りたいとか言った感情はありません。
だとすればこの物体は、私という危険から身を守るために微動だにしないわけではないのでしょう。

対面するそれはそんな私の思考すらも全てお見通しなのですね。
だとすれば、今私が話しかけたときにどのような反応をするのだろうか。
私の興味は止まることを知りません。
万物全てを知るものとは、さてどれ程のレベルなのでしょうか。

と、その瞬間、強烈な頭痛に見舞われました。
頭の中を殴打されたような痛み。
何発も何発も、繰り返されるその痛みに私は悶絶しました。
そこら中をのたうち回り、転がり、自分の髪の毛を毟りました。
毟り続け、己の手の指の爪に挟まる髪の毛を見ては、また毟りました。
そんなんでは痛みから解放されないなんて言うことは、不思議と冷静に解っていましたが、
それでもなお、私は地面を転がりながら髪の毛を毟り続けました。

そして、私の髪の毛が全てなくなったとき、
今度は脳味噌が痒くなってきました。
ちくちくと蚊にでも刺されたかのように痒い。
痒さは脳だけに止まらず、全身の内部に広がっていきました。
皮膚上は何一つ痒くはないのですが、中身が痒い。
掻きむしり、全身の皮膚がぼろぼろになり、至る所から血が噴き出し、
気付けば私の体は血で真っ赤になっていました。
それでも未だ痒い。

腕を掻きむしれば、その傷口から蛆が湧いてきました。
それを払いのけようと必死に腕を振るのですが、
血に混じり大量の蛆が湧いてくるので、振り払っても振り払ってもキリがありません。

地面を転がれば、全身にまとわりついた蛆がプチプチと潰れ、臭い。
ああ、くせぇと鼻をつまめば、鼻がもげました。
もうぼろぼろ。

全身が寒い。悪寒が走り瞳孔が狭くなってきたのか、全てがちかちかして見えてきました。
苦しいですね。ちゃんと呼吸することすらも苦しい。
ああ、煙草の量はもうちょっと減らしておけばよかったかな、なんて。

私は目の前にいるこいつを呪いました。
何故に何もかも知り尽くしているこいつは、
私がこうなることを知っておきながら忠告してくれなかったのだろうか。

私は虫の息。血も少なくなってきた感じがあります。
出血多量でくらくらするし、髪の毛は無いし、一体どうなっているのでしょうか。
それでも私はのたうち回り続けています。
怒りと苦しみで、目の前にいるこいつを破壊してしまいたい衝動に駆られたのですが、
そのことすらもこいつはお見通しなんでしょう?
粉砕することは今の私の状態を考えても不可能なのです。
畜生。

怒りが生まれました。これも知ってるのかい?
ならば私が次に何をするかなんて
簡単に見破れるでしょう?
さてどうするかな。

私は這い蹲って、そいつのところまで行きました。
もう何でもいい。何だっていいから一撃くらわせねば気が済まぬ。
どうせお前は何もしないのでしょう?
推測ですが、そんな気がするのです。
こいつは私に何もしてこない。
否、ちょっと違うな。
何もする気がないのではないですか?

そして私は持っていた散弾銃の引き金を、渾身の力を込めて引きました。
途轍もない炸裂音と共に、そいつは木っ端微塵に粉砕し、跡形もなくなりました。

何故でしょうか?私には解りませんでした。
何故全てを知り尽くしているものであるこれが、
いとも簡単に私の非力な手によって粉砕されてしまったのか。
実は「何もかも知っている」なんて事は誰かのでっち上げで、
実は何にも知らなかったのではないか?

誰かがデマを流したのですね。
私は儚くもそんなデマに流されて、気が付けばこんなところまで来てしまっていたのですね。
しかも体はズタボロ。
やられた。
そしてやってやった。
デマの根元を破壊してやった。

そして気が付けば、私は息絶え絶えにそれが今まで居たところを見つめていました。
何かが置いてあるようです。散弾銃の硝煙のせいでよく見えませんが、
目をこらしてよく見てみると、
そこには、カツラとキンカンとバンソーコーが置いてありました。

このカツラで私の禿げ上がってしまった頭を隠せと?
この虫除けキンカンを体に塗って、蛆虫を駆除しろと?
このバンソーコーを体の傷口に貼れと?

私は震え上がりました。
傷だらけの体から生じる震えではなく、もっともっと根底からくる震え。
全身の力が見る見るうちに抜けていきました。
これが脱力感なんだ。本質的な。
否、もっともっと形容し難いヘンテコな感情です。
そして失禁しました。

知っていた。
やはり全てお見通しだったんだ。

こいつは私がここに来ることはおろか、
死の境を彷徨うほどの頭痛と痒みに見舞われることも、
私の散弾銃によって粉砕されることも、
その場所を私が見ることも、全て。

私はなんて事をしてしまったんだろうか。
後悔の念が押し寄せ、そのプレッシャーで潰されてしまいそうになりました。
しかし何故か、カツラとキンカンとバンソーコーの優しさを心地よくも感じるのです。
粉砕されることを知りながらも、私に優しくしてくれる。
なんて奴だ。
過去の人々はこれを神と呼んだのだろうか。

私は優しさに包まれ、その場所にあぐらをかいて座りました。
優しさを感じる事のすばらしさを知ることが出来たのです。
これが全てだ。私にとっては。

そして私は死にました。

座ったまま、笑顔で、ゆっくりと。

必ずやまた、全知を求めこの地に誰ぞかがやってくることでしょう。
しかし、私も「全てを知っているあいつ」ももうこの世にはいないよ。
いや、待てよ。
寧ろ「全てを知っているあいつ」も私がきた時点で既に死んでいたのではないか?
そして私が来ることを生きているときから知っていて、
カツラとキンカンとバンソーコーを置いておいたのか。
なるほどな。やるな。

連鎖してるのでしょうね。
この地に全知を求めやってくる者は、死ぬんだな。きっと。
こいつの前も、その前も、そのまた前も、
きっとこの地で死んでいったんだな。

それが連鎖して、今は私が全てを知るものとなったのですね。
でも本当は私は何にも知らないんですよ。
でも、そのことを次の訪問者が知ることはないでしょう。

しかし、私は何も持っていないですよ。
次に来る者に、私は何も渡さなくてもいいのですか?
きっとそれでもいいのでしょうね。
訪問者はきっとそれで何かを得るのでしょう。

そして又、その得たものを次の訪問者に繋げていくのですね。

そうやって知識を与えていき、最後に本当の全知が完成するのかもしれません。

私は此処で待ち続けます。
彼は必ず来ます。
そして彼も又、この地で死ぬでしょう。



と、言うようになるんじゃねぇかな〜なんて。
憶測ですよ。鵜呑みにしないでね。

「全てを知るものは連鎖の中で生まれるが、実はそいつも何も知らない。」

と言うような事が言いたかったが為の御伽噺をさせて頂きました。

解らないことは恥ずべき事ではありません。
誰もが知らない出来事というのは、誰に質問したって答えなんか出ませんよ。

私は今後も「解らない」と叫び続けます。
曖昧にするためのフィニッシュホールドではありませんよ。
素直に言っていこうかな、なんて。

皆さんも解らないことは解らないと認めましょう。
解らないことの答えを適当にでっち上げるのではなく、
「解りません」と声高らかに謳いましょう。
その後で、仮説を展開させればいいじゃないですか。
大事なのは「解らない」と言うことを基盤に置くことなのです。
それが先ず1歩目。

2歩目?
2歩目はまだ解りません。
くくく。






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