安寧秩序の打破と東亜新秩序の構築
万国の人々が共存共栄するためには、いったい何が必要なのか。
私の中で、日々渦巻く感情です。
世界市民が共に補え合える社会とはいったい何なのか。
そして、精神状態を共存するためにはいったいどうすればいいのか。
一口に共存と言っても、様々な形があるように思います。
経済的に共存するのか、精神的な意味合いでの共存なのか。
経済的な共存を望むのであれば、マルクス主義、つまりは共産主義社会を目指すという考え方も、一理あるように思えますが、後者、精神的な意味合いでの共存を望むときに、我々はどのような思想を基盤に生活していかなくてはいけないのか。
確かに富の再分配なくして、精神的な富は得られないとの考え方は、私の中では正解の一つではありますが、唯物史観として最終段階の共産主義に発展した後にあるものとはいったい何なのか。
共産主義で富の共存が完了された後、万人は精神的な共存を完達しているのだろうか。
経済思想には、やはり様々な形式・思想が在るもので、それら全てはあくまで「経済が基盤となる考え方」であることを忘れてはいけません。
共産主義だけをとってみても、マルクス主義、レーニン主義、トロツキー主義、主体思想、等々。
挙げだしたらキリのないほどなのです。
しかし、これらの綱領の表向きは、経済的な意味合いは薄く、内面的な、突っ込んだ部分の思想を謳っていることが多いのです。
「モチベーションの高い人間の集合体であれば、経済的にも精神的にも満たされるよ」と。
基本的にはこのような部分であるように思います。
私は最終的な段階に突入するための経路としての共産主義社会には賛成なのですが、
共産主義社会を最終段階とする考え方にはまだまだ疑問が残ります。
創造→破壊→創造の繰り返し。唯物弁証法。
暴力革命必然論などは、未だ私の中に腑に落ちない部分があるのです。
『目的は手段を正当化する。』
とセルゲイ・ネチャーエフが残した言葉はプロレタリアートでもブルジョアジーでも、
暴力は目的があれば正当化できると言うことも含まれているのでしょうか。
革命の為の暴力だけではなく、強要するための暴力も又必要であると。
独裁や、社会主義という段階が必要なものなのでしょうか。
私には解りません。
しかしながら、トロツキー主義にも同感する部分というのは多々あり、
その一つには永続革命論があります。
革命によりプロレタリアートの政権が高々一国で成立したとしても、それは目標を完達したことにはならず、
目標は、全世界での共産主義社会を実現することなのだという世界革命論がそれです。
かの有名な四月テーゼもそのようなことの綱領であります。
二段階、五段階革命では不十分。
プロレタリアートの政権維持のためには、万国での断続的な革命は必須であり、
その為にはプロレタリアートが革命をリードして然るべきなのです。
全世界での共産主義社会。
想像を絶するほどの平均化された社会。
しかし満たされるのか。
結局そこに行き着いてしまいます。
痛みとは経済的な部分が発端であることが全てではないのです。
その他の部分も補い合える社会こそが私の考える最終段階であり、
本質的な意味での共存共栄なのではないだろうか、と思うわけです。
考え方の一つとしては大東亜共栄圏の考え方、即ち東亜新秩序というのも、
今後の私の思想を確立するためには避けて通れない道であると思います。
私も亜細亜地域の日本国民の一人として、初めは日本、アジア圏を基盤に考えていかなくてはいけないと考えておりまして、その共存なくして世界の共存などあり得るはずもないのです。
経済統合は勿論のこと、新文化の創造、新しい生産方式、そして新しい秩序。
※東亜新秩序の中では国際正義の確立や共同防共も盛り込まれていますが、
私の思想とは反する形にあるので削除いたします。
その中でも私は『新しい文化』と言うものに希望を抱いております。
大東亜共栄圏を一つの国家と見立てたときに、愛国心とは一体どこに見いだせるでしょうか。
好きな風景であったり、同じ国民への誇り、歌であったり舞踊であったり、
今現在では、一つの国家独自のものに見いだしている愛国心を、
新たな秩序のもと、大東亜共栄圏への愛国心へとうまく転換できるでしょうか。
例えば、私達日本人がオリンピックなどの国際競技で、中国人を心から応援することが可能か。
ソニーやトヨタ自動車が世界の優良企業ランキングに入っている事を、同じ日本人として誇りに思うことが出来るように、サムソン電機やヒュンダイ自動車のことも誇りに思えるだろうか。
今現在の永平寺や住吉大社にフィリピン人が座禅を組みに行ったり、毎年初詣に足を運んだりするのか。
そういったことは現段階では難しい事なのではないかなと感じるのです。
とは言え同じ文化に同じ感情を抱くということは、共存をスムーズにするために必要なことであると思います。
抗日デモを起こす人達はみんな日本が嫌い、という様なことですね。
(その中の一部にはお祭り好きも紛れてると言われていますが)
そこで、新たな文化、思想の構築によって新たな愛国心を抱こうと言うことなのです。
大東亜独自の統一した感情を引き起こす文化の共有が、一致団結には欠かせない部分なのです。
世界は今、混沌としています。
新しいことを創造するには困難すぎるくらいに、現状の生活に満足している気になっている人間が増えているのです。
それが自分一人のものだとも気付かずに、
「革命なんて、今の時代には必要ない。あんなのは昔話の産物さ。」
と、革命、変革を過去のものとしてしまっている風潮があるのです。
第三世界では、まだまだ革命を必要としている国や地域があることに気付かず、
そのまま眼を伏せてしまっています。
それを変えるのは、その国の人々ではなく我々なのです。
世界統一国家建設の最終目標を基盤に、私達が変えなくてはならないのです。
アルゼンチン人のチェ・ゲバラがキューバを救ったように、私達が世界の情勢にもっと真剣に向かい合い、共存共栄に取り組む時代がきているのです。
革命は過去の産物ではなく、断続的に疑問を解消していくための手段。
イラクに自衛隊を派遣したことについても、この観点だけを見れば間違ったことではありません。
(日本は所詮アメリカの犬なんだ、とか言わないで!)
混沌と同時に疑問を追求するには恵まれた社会に私は住んでいるとも思います。
最近の日本というのは、左翼的な風潮が強く、自国を批判したり、諸外国の様々な抗日的な発言や行動の様々な見解をテレヴィジョンやインターネット等で情報収集することが可能になっています。
それとともに、様々な思想家達の文献や資料も読むことが可能です。
そう言ったことを禁止する国も数多くある中で、私達の住む日本国は「剥き出し国家」としての実力を今正に発揮している訳なのです。
様々な思想家達の資料というのは、自分の思想を確立するためのいい材料であると思います。
自分の意志と、思想家達の意志を照らし合わせ、独りであっても自問自答、ディベートをすることができるのです。
「この考え方はありだと思うが、この○○の部分は違うだろ」
「当時はこの考え方もアリではあるが、今なら○○にしたほうがいいだろう」
「○○さんと△△さんの思想を併せて、私なら□□の思想を作り上げるな」
と言ったように、自分の満足いく思想を建設するためのいいヒントとなるのです。
しかし度々言いましてくどいようですが、情報操作には十分気を付けてください。
本質を見極めるのも訓練ですよ。
情報操作と言えば、この間、『モーターサイクル・ダイアリーズ』という映画を見ました。
チェ・ゲバラの学生時代、南米を単車で旅したときの実話を元に作られた映画です。
泣きました。
南米の貧困層に対する思い、ハンセン病患者への差別に怒るゲバラの描写は、
「当時のゲバラは本当にこんな具合だったんだろうな〜」なんて。
しかし、残念なことにアメリカ&イギリスの合作映画です。
現在尚もアメリカの敵国キューバ。
そのキューバの英雄をアメリカ人が賞賛するように描けるはずもないわけです。
ゲバラの思想的な部分の本質は一切触れず、最後の1分間にテロップがちょろっと出た程度。
実際、旅行中に対アメリカ意識が芽生えたとは思いませんが、ちょっと小綺麗にまとめすぎではないかな〜なんて思うのですよ。
もっともっと泥臭い感じだろ、ほんとは。
でも「将軍様!万歳!」みたいな映画じゃなくて良かったです。
そんなん誰も見ようとも思わないでしょうし、寧ろ嘘もんになっちゃうからね。
そんなこんなで、情報操作に注意しながら己の意志の確立に今後も邁進する所存です。
よろしくお願いいたします。
おやすみなさい。
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