Queen Save The God
思い起こせば、私の人生の中において素通りしてきたバンドや曲などが多々あるもんだな〜なんて。
あんなにオキシモロンとか聴いてるのにビートルズをあんまり聴いたことなかったり、
ポイズン・アイディアなどを愛聴しているにもかかわらず、レッド・ツッペリンの曲はブラック・ドッグしかしらなかったり、
ブラック・サバスはけっこう聴くにも関わらず、オジー・オズボーンのソロの曲は1曲も知らない…など。
王道からちょっとばかり逸れてしまったのでしょうか(どっちが王道でどっちが邪道かなんてわかりませんが)?
いつの間に私も路頭に迷っているのですね。
そうして今まであまり踏み入れなかったバンドの1つに『Queen』があります。
あんなに有名で、最近でも頻繁にコマーシャルの中でかかっていたりしますよね。
しかしながら曲自体は知っている曲が多かったりするのですが、CDやレコードを1枚しか持っていない。
しかもそのCDというのも、私が14歳の時分に購入した輸入盤の『Made In Heaven』。
ちょっと恥ずかしいですよね。否、かなりか。
当時は日本盤は若干値段が高くて買えなかったのです。
案外今も輸入盤のほうを好んで買ってしまうのですけどね。
しかし『安価なほうをチョイスして購入した』ことが恥ずかしいのではなく、
生まれて初めて購入した洋楽のCDがQueen。しかもMade In Heavenなのですよ。
何故だか「初めて買ったCD」の話というのはこっぱずかしいものですよね。
ちなみに初めて買ったCD邦楽部門は『爆風スランプ』だ!何や!文句あんのけ!
その次に買ったのは嘉門達夫じゃ!
しかし今だに Made In Heaven に収録されている曲は時々口ずさんでしまいますね。
なんでこれを買ったのかは憶えていませんが、これ以来Queenの音源を手元に置いたことはありません。
にも関わらず、フレディー・マーキュリーの『動きモノマネ』はよくやったもんです。
くねくねと、しかし上体は反らし気味の、俗に言う「気持ち悪い動き」。
今度機会があれば、披露致します。
これだけは自信があります。
そうだ、携帯動画にでもして、ネット配信でもしようか。
世界中の不特定多数に送りつけようかしら。うふふ。
私の奇跡の舞い。フューチャリング・フレディー・マーキュリー。
今後の人生で、尊敬する人物をフレディー・マーキュリーだと公然と宣言してもいいですね。
「尊敬している人物はフレディー・マーキュリーとアナン事務総長です。」
なんていうセンチメンタル・ジョークが通用する日本人になってください。
どういう意味があるのかは自らで考えてくださいね。
期待していますよ。
しかし、私はQueenの音楽にとことん触れていなかったわけでもないのです。
ついつい自転車に乗るときなどは「バーイセコ♪バーイセコ♪」と気持ち悪いくらいの高音で歌っていたりするのですよ。
知らず知らずのうちに耳にしていたりするのですね。
記憶の片隅にQueenの記憶があるのです。
なぜ、今日いきなりQueenの話題なのかというと、
民主党の党首選挙において、小沢一郎氏と菅直人氏の話題がテレヴィジョンで毎日のように取りざたされる中、私の頭の中で 『We Are The Champions』 が流れるのですが、
「ウィーアーザチャーンピョン♪ ウィーアーザチャーンピョン♪ 小沢〜(オブ・ザ・ワールド)♪」
に聞こえてしまい、四六時中頭の中がかき回されているからなのです。
最後が「小沢〜♪」で終わる曲なんてなかなかないですからね。
嗚呼、別に小沢氏贔屓な訳ではないのだよ。私は。
小沢は私達の王者。
なんじゃい。それは。
と、言うことで党首は小沢議員なのではないでしょうか。
最近QueenのVTRをゆっくり見る機会があったので、ちょっと研究していたのですが、
やはり、私の動きにはまだまだ「隙」があるように思います。
恐らくフレディー・マーキュリーは歌っている最中に暴漢に襲われたとしても適切な対応が取れるであろうと思うくらいに「隙」のない動きをするのです。
目は閉じています。
しかし、彼は見なくても感じることで全てを察しているかのような動きをしているのです。
『近くを弁え、遠くを見よ』
と、その昔、加藤という一兵卒が言っていました。
近くに在るものなどは知っていて当然であり、それに固執しているようでは一生うだつが上がらない。
遠くに在るものを見ようとしなければ、前進できないのです。
目標は常に己の届くか届かないかくらいのところに置かなくてはいけない。
全ての事象に当てはまる、深い言葉であると思います。
フレディー・マーキュリーもこの言葉を実行していた兵だったのです。
近くに在るアンプやドラムセット、観客の位置などは当然のように分かっていて、
目を閉じたままでもステージの上を縦横無尽に動き回れるのであります。
彼が見ていたものは常にどこか遙か遠くなのです。
自分のことに当て嵌めてみてください。
貴方の悩み、苦しみ、憤りが全て近所の出来事で形成されていませんか?
それが一概に悪いことであるとは思いませんが、
箱庭で闘う自分を客観視した時のことを想像してみませんか?
新しい憤りが生まれませんか?
しかしそれは、近くの事ではなく、遠くの事なのです。
今まで見えていなかったことを見ようとすることが、遠くということなのです。
くだらない話はやめにしませんか?
面倒くさいことは勘弁してくれませんか?
結果が出たのか出ないのか解らないくらいの出来事に一喜一憂するのは辛いことですよ。
私は耐えなくてはいけない。
私の人生は忍耐の人生であったと死ぬときに寂しく、且つ喜びに満ちた顔で嘆くことでしょう。
我慢しなくてはいけない。
私は。
私は、耐える。
公然と宣言します。
私の怒りは世界。
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