極東最前線

Friday, December 23, 2005

頭の中のコバルト爆弾

常に己の怒りの矛先は
己に向いておりました。
鬱屈し、また自分自身に怒号を浴びせ、
立ち直れ
立ち上がれ
屈するな、と
悲壮と共に謳われるは孤独と不安、そして空谷の跫音。
虚空を彷徨するは煢然の須菩提、即ち私。
孤独の深淵に沈吟する事となるやもしれぬ生き様に、
只々眼を塞ぎ、耳を塞ぐ。
此の先、往く当てはなくとも。
屍を拾う者となりても。

寂寞とした此の生活の一片一片に、私という存在があります。
落ちぶれたものです。
孤独を苛みつつも、己の栄養としてそれを蓄えていたりもします。

孤独は己を見つめ直す起爆剤として、皆の心にも在るものなのです。

ところで皆さんは孤独と宴安、どちらのほうが好きですか?

私は孤独、つまりは一人になることについて、少なからず寂しさを感じます。
物理的に一人になると言うよりは、精神的に一人になるということに
途轍もない悲壮感を覚えるのです。
つまりは疎外感とでも言いましょうか。

自分だけが違う人間では勿論ないですよね。
皆、自分と同じ人間なのだと思います。
身体の構造も同じ、
思想の偏りも、結局は同じ所に向かっているのではないかな〜なんて。
人間として(という言い方は余り好きではないですが)考えることは同じかな、と。

そこで、私だけ思想が違う、極端、破滅的、自虐的というような判断を受けることが
日常生活に没頭している際に屡々あるのです。

さてさてどうしたものでしょう。
私自身、言語について何不自由なく生活していたのですが、
突然、「いかれた頭の豚野郎。ケツの穴にキスしな。」や、
「あんたの考えてることは、よう解らんわ。土民め。」との発言を頂いたりします。
(そう聞こえるのは私の被害妄想だったりするのかもしれません)

驚きます。
そんなに不可解なこと言ったっけかな?

私のモットーとして
『話すときは解りやすく、書くときは素直に』
を心がけているのですが、空回りしているのでしょうか?

解ってもらえない。
プレゼンテーション能力の欠如。
と共に在るのは、他人に疑惑をもたせてしまう私の生活態度。

発言は、態度によってその信憑性を左右させます。

善の発言をした者が、日頃、日常で好青年と呼ばれる者ならば
その発言は善を尽くした、誠の発言と成りうるのでしょうが、
悪人、下手人の類が発した発言で在ったとするならば、
その善の発言は、只の偽善、伊達、寛闊者と称され、
誰にも信じてはもらえないでしょう。
それを信頼というのです。

つまりは私の言いたいことが伝わらない、又は真実味がないとジャッジされるのは、
私の生活態度にあるのです。

書くことには偽り無く、只ひたすら真っ直ぐに。
話すときはポップでキャッチーに、時に冗談も交えて。
それがあかんかったんか。
あまりにもギャップがあるのやもしれません。
故に信憑性という面で障害があるのかと。

実際、どちらの自分も本当の自分であることには変わりは無いのですよ。
皆さんにもそういったことが少なからずあるのではないでしょうか。
鏡に映る右手が、左手に見える現象と似ていますよね。
二面性とは思想と本能の狭間に浮沈するものなのです。

真実の自然体、つまりはニュートラルな人間を目指して驀進しているのですが、
なかなかそう言うわけにもいきませんよね。
社会からは疎外、迫害され、忌み嫌われ、日常生活が困難になりますから。
ビビっちゃってんのね。
反逆要素を社会は作り出したくないでしょうしね。

私はニュートラルに生活する事を恐れ、
社会はニュートラルな人間を恐れています。
社会は偽善者が大好きですから。

私は生活をもう一度見つめ直してみます。

私の躍進を止める要素は、常に私の中にあります。
驀進か玉砕か。
私が決めるのです。

『賞賛はいらん、同意をくれ』By Katoh The Sweet

あんたが邪魔しようとするならば、
遠慮無く轢き殺しますよ。




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