2006年、賽は投げられた
あけましておめでとうございます。
皆様、年末年始は如何お過ごしでしたでしょうか?
笑い、泣き、叫び、戦いたことと思います。
私はと言うと、自分との戦いでした。
己の驀進は正しいベクトルに向いているのだろうか?
気付けば、とんでもない方向に向かって歩いていってしまっているのではないのか?
そう思わせるような年末年始。
皆さんは理想の自分像というのをお持ちでしょうか?
もし持っているならば、それに向かって躍進する自分を阻まんとする障害を如何にして対処するでしょうか。
私は己のやっていることを極端に否定されると、嫌悪感というか殺意が芽生えます。
そして考えます。何故にこの人間は私を否定するのか。
私の歩む道にレールを敷きたいのか。
私の歩む道を妨害したいのか。
私を殺すつもりなのか。
最終的に理解の範囲を超えているので、その時点ではあまり気にも留めないのですが、
その腑に落ちない感情が、絶えず私の邪魔をするのです。
否定されたくない、強要されたくない。
そのような感情が少なからず皆さんの中にも在るのではないでしょうか?
私はありますよ。
殺されるくらいなら、殺してやります。
『あなたは隣にいるその人を、どうしたいの?』By Katoh The 2006
この言葉を聞いて皆さんはどう思いますか?
あなたが今一番に思い浮かべる人間に対して、その人をどうしたいと思っていますか?
考えてみてください。今年中。絶えず。
そして年末年始に於いて2005年までの己を総括していたのですが、
『軽率』な人間なのではないかと感じたのです。
他人には『なんて軽率な人間なのか』と散々絶句したりするのですが、
案外軽率な人間がここにも一人。私です。
安直に何も考えず行動していることが在るもんですよね。
何か他人を巻き込んでの行動を発起するときは、それなりの覚悟を持って行動せねばならぬ。
何か発言をするときは、その発言に対し、責任を持てなければならぬ。
例えば他人に何かアドバイスをしてみるとします。
そのときに、何かのプランがあり、目標があり、全てが明確に宣言できるようであれば、
それはアドバイスとして成り立つのでしょうが、
『〜してみたらいいやん』とか、アバウトな部分を持っているアドバイスであれば、
それは何の意味も成さない。寧ろ、怒りや憎しみを買うことになったり、
恨み辛みとして跳ね返ってくることもあるでしょう。
何も言わないほうがマシと言うものです。
日常生活による価値観の麻痺。
それが『軽率さ』を生み出す根元。
生活で堕落すればする程、私は軽率さを増してしまいます。
甘えた生活態度が性根を腐らせていくのです。
そこで2006年。
「ちゃんとする」って誰かが昔言っていたのを思い出します。
そのときは笑い飛ばしてしまっていたのですが、よくよく考えれば深い言葉ですよね。
ちゃんとするとは言え、皆様できておりますか?
皆さん個々に「ちゃんとしている自分像」をお持ちでしょうか?
それと自分を見比べた時に、さていかが?
自分の「ちゃんと」っていったい何?
私は何にも「ちゃんと」達観せぬ儘に生きさせられてしまっているようです。
まだまだ自分では生きていない。
生きさせられてしまっている。
私の「ちゃんとする」は、自分で生きることです。
と言うことで2006年の豊富は「ちゃんとする」。
私も25歳。後厄。
四半世紀の歴史は今、葬り去られました。
ここからです。
ここから。
生知安行為せずが人ぞ
聞こゆる声は大軽率鳥の
発する声は未だ聞こえず
舌の剣は命を絶つ
2006年もよろしくお願いいたします。
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