日刊極東 第1号
辺りはもうすっかり闇へと沈んでいます。
夜です。
月光は浮雲を照らし、群青の深い闇が広大な空のキャンバスに美しいグラデーションを描く。
まるで次に上る太陽へのお膳立てをしているよう。
鬼火がちらちら、狐火がめらめら。
迎えに来てくれたのかい?
まだちょっと早いよ。
もうちょっとだけやることがあるんでね。
すまないね。
先にお休みよ。
虚空を見上げれば、疎らに見えるは無数の星。
瞬きはまるで、私に何か朧気に訴えかけるようにコントラストの強弱をつける。
「お休みなさい」と訴えかけているのか。
将又「活動せよ」なのか。
闇と輝きはどこまで続いているのだろうか。
それは私の味方だろうか、敵だろうか。
空は戯言を飲み込んでくれる。
凍竜の如き寂しさを紛らわせてくれる。
烈火の如き怒りを静めてくれる。
静寂の中、深夜の月は暁月夜とはまた違う佇まいなのがまるで生き物のよう。
人格というか性格というか。
雰囲気一つで表情を変える、しかしそれは常に優しい。
なんともジェントルマンでね。羨ましいね。
可惜夜を感じつつも、太陽の昇るのもまた待ち遠しい。
明日も陽が昇るだろうか。
明日は前が向けるだろうか。
明日は人に優しくできるだろうか。
罵倒してしまわないだろうか。
足踏みしてしまわないだろうか。
勘違いさせてしまわないだろうか。
私の発言の真意は誰にも伝わらないのだろうか。
さてと…
昨日、このブログのほうにコメントがありましたので皆さんで考えていきましょう。
コメントを書いたと言う事は、何かしらの覚悟ができているのでしょうから。
このコメントは世界中の人たちが見ますよ。
世界各国のありとあらゆる人達は、
このコメントをどのような気持ちで(翻訳して)読んでいるのでしょうね。
はい。まずは、
一般的にいうとあなたは自意識過剰で勘違い野郎!
といきなりアクセル全開、と言った感じですねぇ。
いいねいいね〜。
ぴったりの表現ではなかろうか・・・
確かに。ピッタリかも〜。
皆、どこかで自意識過剰なのだと思いますよ。
皆、何かしらに勘違いを起こしていると思いますよ。
例えば誰も望んでいないのに、自分の得意分野(例えば動物占いとか)の話とかを
懇々と1時間以上演説する、みたいなことも完全に自意識過剰の類ですよね。ん?どう?
私はそれ自体は悪いとは思っていないので、
今後もそういったことを続けてもいいのではないかなぁと。
そもそも生きようとしてること自体が既に自意識であって、
自己主張が強いだけで自意識過剰と言われてしまっては、
世界中が自意識過剰人間だらけになってしまいますね。まぁ大変。
しかしながら人間(僕)というものは、
肯定的な意見をフンフンと気持ちよく聞いてはいるものの
逆にのちのちの不安や焦燥に駆られる事もしばしばあります。
私もそうです。
どのような意見であってもフンフンと聞き入れていますが、
その後その意見と全く相反する感情に苛まれたりしてしまいます。
「君は最高だ!悪い所がひとつも無い!」的な言葉をかけられたら、
嬉しさ半分「ホンマ!!?」(疑)半分となります。
なりますねぇ。
疑惑を持ってしまいますねぇ。
何故なのでしょうね。
疑惑なんて持ちたくないと思っていても、そこまでの自身が自分に無いが故に
賞賛に対して漠然としない、腑に落ちない、そんな感情が生まれてしまうのでしょうね。
ワンマン社長に上司がいない為にうつ病!という状態でしょうか。
自信満々のところすいません…
これはよく意味が分かりません。
逆に否定的な意見に安心し、自己確認をしているのでは・・・
という考えもあります。
ん?なになに?実に興味深い。
聞かせて聞かせて。
というのは、反論されることによって自分が善or悪
もしくは多数派or少数派の認識をしているようです。
そうですね。
反論されることが最も手っ取り早くそれらを認識できるでしょうね。
只、そればかりが認識の手段ではありませんよ。
自分が衝撃を受けるような出来事に『遭遇』、もしくは『触れ合う』ことで、
自発的にそれらを認識することも勿論可能です。
衝動的な働きかけばかりでは思考は偏りがちになることが多いのです。
そのウラには
「自分は社会に貢献できるのだろうか?」や
「りっぱな大人になれるのだろうか?」
などの手ごたえを欲しているのでしょうか。
なるほどね。
そこからここに発展するか。
うんうん。
私はその感情について「社会的地位への不安が大きい」と感じます。
誰よりも普通で常識人になりたいと願う変態。
できないから望む。でもできない・・・よって不安。
つまり『普通になりたい』ということなのですかね。
私もそういうときあります。
アダルトビデオをレンタルするときに、
男性店員と女性店員が別々にレジを担当している中、
わざわざ女性店員のほうに並んでしまったりしています。
『普通』は男のほうに並ぶっしょ。てこと?
あ、そういう事じゃない。あ、そう。
つまりは何?
『自分が受け入れられていない』と言うことを認めているってことですかね。
噛み砕いて言うと
「自分は受け入れられていないから、普通になり、受け入れてもらいたい」
というところかしら。よく解りません。
社会に貢献するって、受け入れられるってことですものね。
大人になるって、集団に適応するってことですものね。
己が普通ではない、との認識があった上で最初の
『一般的にいうとあなたは自意識過剰で勘違い野郎!』
『ぴったりの表現ではなかろうか・・・』
があるとするならば何を根拠に言っているのでしょうかね。
ぴったりとは誰が認定したのでしょうかね。
普通代表の方に伺ったのでしょうかねぇ。
「一般的に」と「ぴったり」と言う言葉がキーワードですね。
その2つの言葉を、コメントを書いた貴方が放ったとするならば、
「一般的」な表現を、貴方自身が「ぴったり」と判断できる。
それ即ちあなたが一般的な思考の持ち主と言うことになりますよ。
つまり「普通」になれていますよ。十分に。
おめでとう。
もしもそれらの表現が推測だけで構成されているとするならば、
その言葉が人を傷つけたり、悲しませたりする代償を
どうやって購うつもりなのでしょうか。
長くなりそうなので次いきます。
私もたまに(年に1回ぐらい)自分に対して正直になる時がありますが、
一瞬泣きます。
ふんふん。それから?
14歳のときに「こんな大人になる!」という未来像を思い出しては、
今のブヨブヨの自分を見て「こんなはずじゃなかっただろう・・・」(悔し泣き)
てなもんですよ。
解る。痛いほどよく解る。
私の幼少期、あのころ描いていた自分とはいったいどんなだったろうか。
明確なビジョンは無かったのかもしれません。
あんまし覚えていませんが、当時の私が今の私を見たらなんて言うでしょうかね。
ガッカリしてしまうかもしれませんね。
ただし、一瞬だけ泣きます。
なぜかっていうと少しだけ大人になったからです。
いきなり号泣するとおかしいと思われてしまうからね。
だから、泣きたいのを我慢して一瞬にとどめるんです。
我慢しなくたっていいのではないでしょうか。
ただ泣いているという人間全てに、
「あいつガキか」
という人間のほうが子供だと思いますよ。
泣きたいときに素直に泣ける
笑いたいときに素直に笑える
怒りたいときに素直に怒れる
もちろん時と場合によりますが(会議中に笑ったりとかしたら駄目よ)
上手く喜怒哀楽を表現できる人間も大人ですよ。
と、ここまでですね。
私がここで書いた言葉は、コメントを下さった個人に対して放ったものではありません。
皆さんも自分に置き換えて感じてほしいと思っています。
総合的に感想ですが
『理解できる』
が今回の感想です。
と言うように、何かコメントを残してくれた方には
『同じリングに上がってもらう』と言うようなことを実践してみました。
只、これに対して同じ人間がコメントをしてきても
もうリングには上げません。
1回こっきりです。
1回に全力を投入してください。
只、先に断っておくと、
こうやってコメントの対応ばかりしていると
普段書いているようなことが書けなくなってくるので
書くときは吟味して書いてくださいね。
面倒くさくなったらコメント消すぞ!オラ!容赦なく!
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