極東最前線

Tuesday, September 12, 2006

私の苛立ちの理由

人を信じると言うことは絶大な体力と精神力を必要とするものですが、
人を許すということもまた、人間にとっては難しいものであります。

他の者を意味もなく誹謗中傷するというのは、人間特有の奇妙な行動な訳ですが、それに何の意味もないとなれば、それ程奇怪なことはありません。
面白いならば、どれだけ他人を傷つけようが構わないという考え方。
己の笑いのためならば、他を無差別に殺害しても構わないという、卑劣な考え方。
己が満足するためならば、他の家庭や人権、名誉を破壊しても構わないと言う考え方。
私は少々寂しく感じます。
「そういう空気」だから許されるのでしょうか?
「勢いづいてしまった」から許されるのでしょうか?

私、自虐的な笑いと言うものを推奨する人間でありますが故に、民衆を無差別に虐殺する、鉄槌を喰らわすような笑いに、どうしても拒絶反応を起こしてしまいます。
うっかり他人を傷つけるようなジョークを放ってしまったときは、すかさず己にそれ以上の刃を向けることにしています。
他人の注目がその人に止まり、皆がその誹謗中傷に情報操作される前に、己をどん底まで落とすのです。
それが罪滅ぼしになるとは思ってはおりませんが、少しでも醜い情報操作を緩和することができるのであれば…と反省の意を込めて、己の喉に弾丸を詰め込むのです。

最近、自分の両親のことを中傷されることが頻繁にあります。
その場では笑いに変わります。
なぜなら私が空気を読んでいるから。
私の両親を誹謗中傷した人間のその醜い言葉を、私が許し、面白可笑しく誇張して追加発言をし、自虐しているのです。
しかしながら、本当は悲しいし、悔しく思ったりもします。
両親にはやはり幸せになって欲しいと思っておりますし、ましてや私と同年齢の若造達に中傷されてほしくもないわけです。
ましてや私の家庭の事情を何も知らない人間が、憶測のみで断定的な発言をし、周りの何も知らない人間に刷り込み教育を行うのです。
私の両親の負のレッテルは私の知らない場所や、デマのみで形成されていくのです。
そうして偽りの人間像がそこに完成するに至るのです。

「気にしなければいい」と仰る方や、「冗談なんだからいいじゃないか」と仰る方もいます。
いいのか悪いのかは私が決める問題です。
中傷されているのはあんたじゃない。俺だ。
と、急にそこで私がぶちギレて、中傷発言を行った人間を撲殺したとします。
恐らく世間では、私が悪いということになるでしょう。
しかしながら、私はそのことを「私がやりすぎました。すいませんでした。」と反省することはまず考えにくい。
私を中傷するならばまだしも、両親を侮辱し、揚げ句「お前の母親は惨めだな。あっはっはー。」と私の自宅前で大声で叫ぶ。
その後、電話越しの母親は泣いていました。
私に謝っていました。
追い打ちをかけるように、その誹謗中傷を断行したテロリストは携帯電話のメールや口頭で、私の母親を中傷する発言を絨毯爆撃のように友人達に発信し続けました。
そのメールの内容は無秩序極まりないものであり、「皆さんに一斉送信しております。加藤の母親は○○○。」
(※○○○はとても書くことがおぞましくなるような内容です。)
と言ったような事を幾度となく繰り返し続けました。

このBlogを読んでいる弁護士の方がいらっしゃったら、是非メールをお寄せ下さい。
訴訟を考えております。


1 Comments:

At 9/13/2006 12:49 pm, Anonymous Anonymous said...

京都府内で弁護士をしている者です。
もしご相談にのれるようなことがあればと思い、コメントをさせていただきました。
あなた様のメールアドレスに一部の判例をお送りいたしております。
事務所のほうにご一報いただければ、裁判までの手続きもスムーズに行えますので、どうぞご気軽に電話なりメールなりいただければと思います。
全てのお話を伺ってみないとなんとも申し上げにくいのですが、このようなケースの場合、勝訴になる可能性は極めて高く、相手側の和解交渉を引き出すといった形も比較的すんなり取れます。
裁判を行う価値は十分にありますので、最後までがんばりましょう!

 

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