猛虎の猶予するは蜂蠍の螫を致すに如かず
旅情の郷愁背中に背負い、
旅終わりては又遂げるもの。
その脚下から新たなる道。
旅の途中に綾藺笠を置き、
己の眼前開かれん。
箙の歌の木霊も微か、
掻き消しても今尚聞こゆ。
客愁羇愁のその内に、
喜宴の花の美しき哉。
嗚呼、不愉快だ。
と、笑顔で口に出して言うことが面白いときもあるもんだ。
と言うことで、先日友人の結婚式がございまして、実家の方に帰省しておった訳でございます。
一昨年の年末ぐらいから、第一次結婚ラッシュが始まっておりまして、
気付けば友人勢の中で、独身なのはお決まりの面子であったりしております。
私、お決まりの面子でございます。
十年来の友人が結婚するというのは、結構複雑な心境でありまして、
嬉しい、喜ばしいのは勿論なのですが、それと共に抱く感情の一つと致しまして、
「実感が湧かない」と言うのも感覚的に存在します。
結婚したから私にとって友人の何かが変わるというわけでもなく、友人は友人でありまして、
今後も恐らく今までと変わりなく誘いの電話をかけることでしょう。
ただ一つ今までと変化があるとするならば、断られる確立がグンと上がるのでしょうね。
それも又一興。
そして披露宴、二次会と催し物が進むにつれ、私の心中は穏やかではなくなっていきます。
私、二次会で司会進行業務を担当した訳なのですが、
私のジョークが通用しないではありませんか。
私のとびっきりのハイソサイティ・ジョークは全弾外れ、否、掠りもしない。
是はどういう事かと辺りを見回すと、何と全員外国人。
そうか、どうりで日本国家で通用するジョークが誰一人として通用しないわけだ。
私は臨機応変に、柔軟に対応しようと、急遽隠し球であるアメリカンジョークを放ちました。
すると、そのジョークは一部の人間からは大好評。
やはりそういうことか。
調子に乗って2発3発と打ち続け、ある一部の人達のハートを鷲掴みにし、私は癒されたのでした。
ごめん、嘘。
全部だだ滑り。
日々こつこつと携帯サイトでアメリカンジョークを調べ続けた私の努力は一向に報われなかったのでした。
「俺が悪いんじゃない。空気を読めない人間が全て悪い。」By Katoh The No Idea
はい。責任転嫁。
私は発する言葉を選び、皆は聞く言葉を選ぶ。
その果てに残るものは、どれだけ本質と懸け離れた言葉なのでしょうか。
銃弾が肉体を傷つけ、時にその生命をも危機に立たせるものであるならば、
言葉とは精神を打ち抜く弾丸です。
言葉一つで誰かが傷つき、苦しみ、時に死を招きます。
扱い方を間違えば、その弾丸は己を貫く事となるでしょう。
包帯が肉体の傷を癒してくれるものならば、
言葉は心を癒す最も優れた薬です。
その一言が誰かを慰め、立ち直らせ、奮い立たせることもあります。
しかし相手も受け取る言葉を選びます。言葉を放つ相手を見るのです。
薬としての効力は、言葉を放つ相手が誰であるかで決まるのです。
言葉は時に無産の代物です。
私の言葉が常に無力なのは、私の個人的人間性に問題があるからなのでしょうか。
誰も私の話に耳を傾けようとしないのは、私の個人的魅力が欠乏しているからなのでしょうか。
私の声が届かないのは、皆が聞こうとしない訳ではなく、
私の言葉に魅力がないから、私の言葉を聞くことに意味を見いだしていないから。
何もかも私自身に責任があるのです。
人間一人動かせないこの言葉に、世界を動かす程の力がないことなどは、誰の目にも明らかであり、
私は今まで放ち続けてきた言葉の重要性が、己の中だけで分解し解釈されていたものであると、
薄々解っちゃいましたが、結局行き着く先は話すことも書くことも同じだったのです。
「何かのメッセージに対して、受け取り方は人それぞれ」
と今までは考え、そしてそれも弁えた上で言葉を書き連ねてまいりましたが少々違うようです。。
それは、己の言葉の無力さを正当化するための逃げ口上でしかなかったのです。
「万人に共通の感情にさせるためには、どのような言葉を放たねばならないか」
と言うのが今回のテーマです。
落語家さんなどが、寄席などで全員を笑わせたいと思うように、
私も私の言葉で全員が「統一された感情」を生み出してくれることを望んでいるのです。
つまり、私の言葉の威力が全ての人間に同じように届いて欲しいのです。
その為に私は一体何をしなくてはならないのでしょうか。
感情の理由、引き金になったものは人それぞれであってもいいと思うのですが、
「感情」が喜びであったり怒りであったりとバラつきが出てしまうと、
その又先に「言葉を受け取った側同士の、意志の相違による争い」を生み出してしまうからなのです。
第3者同士が争わないためにも、言葉は様々な人達に統一の感情を生み出させないといけないのです。
人間を構成する要素として「言葉」は重要な役割を担っています。
その言葉一つで、その人間がどういった人間であるかが決定されてしまう程。
言葉は一人歩きしてしまうのです。
私と会った事がない人間がこのBlogを読むと、この文章だけで私がどういった人間であるか
ある程度予測するでしょうからね。
それは勇み足かもよ。
「このはし渡るべからず」
と言われて、一休さんのように屁理屈を言うような人間を作ってはいけない、と言うこと。
全員が同じ事をするような言葉にしなければならないのです。
「この橋渡るべからず」
と「はし」を漢字で書くだけで、それは防げるでしょう。もっと言うなら
「このブリッヂを渡ることを禁ず」
パーフェクトでしょう。頓知は鮮やかとはいかないでしょう。
単純なことなのです。
私を否定したいと思っている全ての人民に告ぐ。
「私を否定したいのであれば、主観的な理由以外にして下さい」
貴方は何のために言葉を放ちますか?
もう一度よく考えてみて下さい。
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