システム・ゼロ
ある男達の会話の中で、
「ロボット産業についてかい?
近年の偉大な発明品として、この戦後の高度経済成長の支えともなったアイディア、
つまりはベルトコンベア方式の生産システム、T型フォードに代表される大量生産のシステムね。
あれが僕の考えるところの初期のロボット機械産業だと思うんだ。
工場全体を1つのロボットとして考えた上での話だよ。
しかしながらそのロボットには数多くの人間の労働が仲介されているわけだから、
君の言うような完全独立型のロボットとは違うものだね。
今はロボット技術も発達してきているけど、直立2足歩行がやっとできてきた段階で、
アンドロイドなんて呼べるような代物ではないけど、
例えば近未来、つまりは以後1世紀以内に本田技研工業やその他の優秀な技術を持つ企業が
そのような人造人間を完成させる可能性は少なからずあるだろうね。
え?人造人間じゃない?
じゃあ何かい?ラブドール的なものかい?
それも違う?
もっと動物的なもの?SONYの犬型のあれかい?
それも近いけど違う?
それほど頑なに否定するところを見ると、アブラハム宗教的な考え方で、
人間が人間を創造することが神への冒涜と考えていたりするのでは?
私もその考え方に他意はないよ。
誰しもが将来の科学技術の進歩や社会の近代化を不安に思ったりするものさ。
しかし君が言っているのは有機人造人間、つまりはホムンクルスを指しているわけではなく、
あくまでロボット、機械仕掛けの稼働物の事を言っているのだろう?
だったら大丈夫さ。不安になる事なんてない。
ロボット工学にもルールがあってね。
第一条:ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条:ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条:ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
なんていうのがあってね、俗にロボット工学三原則と言われるやつだよ。
まぁ小説の中で説いてる律だから、法的拘束力はないんだけど。
つまり、こういった倫理観を持った中で、ロボット産業は進むべきであるっていう
精神論がある訳よ。
君の言うロボットてのはどうだい?
これには当て嵌まるのかい?
ふ〜ん。大体当て嵌まると。
つまり意志をもって動いているって言うのかい?クローンでもないのに?
機械部品の集合体に意志を持たせるなんていうのは、
まず間違いなく今の技術では不可能とされているよ。
すると何かい?君は今後100年以内に、世界ではネジやギヤの塊にミトコンドリアを埋め込んで、
自動車のエンジンの様な物を自立した機関として、
人間で言うところの脳や心臓、その他の内蔵を作り出す、と。
そう言いたいのかい?
バカ言ってんじゃないよ。
君の話にはついていけないな。
猫型だとか四次元だとか、ましてやタイムスリップだとか。
常軌を逸しているとしか言いようがないよ。
僕は帰るよ。明日学校で算数のミニテストがあるからドリルやんないと。」
というのがあります。
「小学生同士がドラえもんの話をしている」
というだけの事だったのですが、現実じみた人間が居るばっかりに
少々小難しくなりすぎてしまって、拗れているようですね。
世の中には
『難しく考えなければ、もっとスムーズにスマートに出来る』
と言うようなことが氾濫しているように思います。
「出来る」というよりは「考える事が出来る」と云う方が相応しいでしょうか。
技術的、学術的な研究分野では、勿論複雑な方程式を用いて
難解な法則や技術を導き出すというのが筋でありまして、
私自身、そのような難しいことは体得致しておりませんので、
「それは難しく考えて頂いて結構です」としか言いようがございません。
何せ体得どころか、体験すらしたことがない人間なもので、
口出ししようがない、というところですかね。
よって、ここでは『精神的』な分野に於いて、もっとイージーに考えてもいいのではないかな、と言うことを書き連ねることに致します。
『潔さ』
と聞くと皆さんはどのような感覚を想像するでしょうか。
「見切りが早い」「思い切りがよい」「未練がましくない」
といった『侍』のような人間を想像するのではないでしょうか。
敵に囲まれ、正に四面楚歌となり、絶望の淵に立たされた男が潔く自決。
敵に縋ったり、命を乞うと言ったようなことが武士として恥ずかしいことであるとの
頑なな意志、武士道に則った潔さと言えますね。
『武士道とは死ぬことと見つけたり』
と言うのも、この「潔さ」の事を謳っているのであるように思います。
この「潔さ」というのは「難しく考えない」という生き様に於いて重要な志でありまして、
何かの強い信念に従い、それに則った形を正とし、反すれば勿論誤であると。
その道を何らかの障害により踏み外さねばならないようであれば、身を引くのが道理である。
即ち是、「潔さ」の心得である、と言うようなことですね。
けっこうシステマチックな事だと思いませんか?
1つの事象につき1つのマニュアルがあり、それに記載してあればする、記載してなければしない。
それを破らなければならない現実に直面してしまったら、その事象を放棄する。
至極単純明快な事であるように思えるのです。
自分自身の中で決め打ちしてかかる事とでも言いましょうか。
しかし、この「潔さ」も見る人が見れば悲しい哉「諦め」と見られてしまうものです。
その「潔さ」に至るまでの経緯を知った人間は、「潔い」と認定することが比較的容易なのですが、
その経緯を知らぬ人間は「何て諦めが早いのだ」と失望の眼差しで、蔑視し差別し、
挙げ句の果てに、父親のようなお説教等で「そんなんじゃあかん」と叱責を呉れることでしょう。
知らんのによう言うなぁ、と説教を聞いてる側も項垂れるような風景です。
去る5月5日のPRIDE無差別級GP開幕戦。
泣きました。
高阪剛、負ければ引退を表明しリングに上がりました。
試合のリング上、どれだけ倒れようが、どれだけ出血しようが決して諦めようとはしませんでした。
幾度となく倒され、幾度となく立ち上がる。
精神力だけで立ち上がり相手に向かっていく姿に、彼の生き様、否、男としての人間としての生き様を垣間見たような気が致します。
私達は格闘技を見ているのではなく、高阪剛という男の集大成を見ていたのです。
高阪選手の試合は、見ている人達に多くのメッセージを投げかけてくれたように思います。
戦いの中での潔さは諦めだ。
只、人生に於いての潔さは諦めではなく終着地点。
そして人生とは戦いの連続であり、潔さとは本来無縁の感覚なのだ。
人生で潔さを見せるのは『己の何かが死ぬとき』だけなのだ、と。
「TK。お前はやっぱり、男の中の男だ。」
結局のところ、『潔さ』なんてのは、人生の中でそうそう出てくるもんでもない、と言うことなのです。
そして、「できれば難しい事なんて考えないで生きていきたいなぁ」なんて考えてる私が最も小難しく考えていたりしてしまいまして、結局は自分でも収拾がつかなくなって、考えるのも疲れて寝てしまう、何て事が頻繁にあるもんだから、こう言ったことも改善したいなぁなんて、また小難しく考えてしまったりしたことについても小難しく考えてしまって…の悪循環。抜け道無し。
潔く考えるの止めたらいいのにね。
誰でもいいから「ストップ・ドント・ムーブ」とでも言ってくれれば落ち着くのでしょうか。
2 Comments:
気のせいか故意なのか潜在意識下なのかわかりませんが、何パーセントか僕に向けてのメッセージ込みや思うので初カキコです。2ちゃん風に言えば初パピコです。
高阪泣きましたね。
高阪の師匠・前田日明ボキャブラリーより
「かっこいいことって何てかっこ悪いんだろう。かっこ悪いことって何てかっこいいんだろう。」
あんなオール巨人にゴリラのエキスを注入し続けたみたいなルックスの高阪ですが、昨日はかっこよかったです。
僕自身、自分はこの先高阪という男を超えることができるのか?
かなりの確率でできないんじゃないかな、と思います。
「人に好かれたい」ではなく、「男としてこうありたい」という生き方。
それを全うしていれば、誰かがついてきてくれるはず。好いてくれるはず。
胸を張って今の自分が好きですと言えない今の自分。
男としての生き方。
武士としての生き方。
チンチンつけて生まれてきたからにゃあ、かっこつけて生きなあかんわなぁ。
明日またペイするぞっ!!(バス・ルッテンにボコられた後の船木風)
「サバサバ」とか「B型は来る者拒まず去る者追わず」とか言うけれど。
私は1人で生きてきたんじゃないから。
私という人間は全てが自分の思惑通りで今の私ができたんじゃないから。
私には「潔さ」はやっぱりないんだと思う。
私が常に向き合ってるのは人間ですから。
私、言い訳巧いです。
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