極東最前線

Monday, August 07, 2006

誰が為に陽は昇る

何が悲しくて私は又鬱ぎ込む。
必要な動きなどなく、又動きすらも必要とはしていないようです。

共振。
心を劈くその刃に、平伏すのは姿か将又思考でしょうか。
出会いは一期一会。しかしながら、そこから己の行く末は変化を遂げます。
見えるは闇、見えざるは己。
人類全てに警告を発しては心を一つ無くす。
解ってはくれません。


最近、Blogを書く余裕もなく、更新の頻度が著しく落ちていることをここにお詫びいたします。
と言うのも、体調不良と睡眠不足によって、どうしても本能のあるがままに己を組み立ててしまっているわけでして、つまりは眠たいから寝る、とかしんどいから休憩をとると言ったような怠慢な生活が続いてしまっているわけでございます。

そんな軟弱な事を言っていたら体も弱くなっていくもんで、気付けば熱中症と診断されておりました。
私の頭痛、吐き気、目眩の原因は熱中症だそうです。
つまりは平和維持活動に熱心になりすぎるがあまりに、他のこともロクに考えもせず、根を詰めすぎたのが原因。
何かに熱中すると人間という物は脳味噌が熱くなり、オーバーヒートしてしまうのですね。
何事も程よく、適度に、がいいのだなと勉強になりました。

そこで自分に課すテーマと致しまして、「如何にして己に打ち勝つか」。
つまり、やりたいことや欲していることを如何にして断つかと言うこと。
やりたいことを我慢する犠牲的精神を養うと言うのも己の成長には欠かせないスパイスであり、皆が常にその心がけで人生に挑めば、必ず世界の秩序は安定するのではないかと考えております。
万人が譲りあう、我慢する、耐える、と言う世界。

例えば仕事などで徹夜になったりしますよね。
夜中から明け方にかけて、やはり眠いです。人間ですから。
睡眠欲というのが己の目の前に立ちはだかるのです。
只、気合いで眠さを我慢し、仕事に没頭すると言うのも犠牲的精神を養うと言うことなのです。
眠気を我慢する。
いらぬ事を考えたりせず、仕事にひたすら打ち込む。

するとどうでしょう。
「俺に人権はないんか」とか
「今すぐ労働基準局に電話でもしたろか」とか
「今この刹那に割腹自殺を敢行し、翌日出勤してきた人間達への驚異にしたろか」などと
戯け巫山戯た事を吐かしてしまいますよね。

そんな時私は己に言い聞かせます。
「考えるな。働け。」と。
生産は社会の必要最低限のところにあるのです。
生産なき安定はない。
また、安定なき生産が確保できないような社会は地獄なのです。

と労働に対してはシンプルに、且つ熱欲的に考える私ではありますが、
いやはや昔はこんなんだったっけかなと回想することも最近になって多々あるわけです。

人間てのは腐った生き物(とはあまりに人類学上左翼的な意見)でありますが故に、
考えてることなんてそうそう簡単に変わるものではありません。
とは言え、己の於かれた生活環境や習慣、強制される事への順応性を見せる度に、
少しずつではありますが変化を遂げる生き物でございます。

変わらないことが悪いとは思いませんが、変われないことは寂しいことです。
その都度その都度、状況の変化に応じて適応することこそが、今後の社会生活に必要なスキルであるように思えるのです。

過去の自分を総括して考えてみますと、
「順応」「柔軟」「臨機応変」と言ったような言葉が著しく欠乏していたことは否めません。
一言で言うならば「頑固」と言ったようなところでしょうか。
己の信ずるものに間違いはなく、他は徹底的に抹殺すべきである。
何人たりとも私の思想を侵害することは許さない。
私を論破する気であるならば、己の死をも覚悟せい。
私に意見をするな。私と討論しようとなんぞ考えるな。
私の生き方を歪めるような障害を眼前に建設しうる行為等は重罪である。
即刻、市中引きずり回しの上、打首獄門。
これにて、一件落着。ぽんぽんぽん。
と言ったような考え方で通貫しようとしていました。
完全なるテロリズムであります。

それから考えてみますると、私も気付けば社会を構築する一員として、
ちょっと変わってきたな〜なんて思うわけです。
己の信ずる道があることに変わりはありませんが、
その信ずる道の歩み方を様々な観点から考えることができるようになってきています。
つまりは他人の話が耳に入るようになり、
己の行っていることをドッペルゲンガー的観点で客観視出来るようになりつつあると言うところ。

只、どう変わるのが正しくて、何を信ずるのが正しいのか何ていうのは、
恐ろしいくらいに主観的な考え方であることを忘れてはいけません。
いくら客観視出来るとは言え、やっていることは自分自身のことですから、
それは己が如何にオルガスムスを感じられるか如何かというところにあります。
それを勘違いしてしまい、
「小生は皆の意見を聞く。万人の道標である聖者となり、万国への武力行使に励みまする。」
と言うのが宗教戦争の考え方。
地球規模の本当の客観視とは、世界60億の人間から意見を伺った上で1つの考え方を成立させるところにあります。
『これが常識だ』とか
『なんでそんなんも解らんのや』と言ったような考え方は、
その言葉を放った人間の方が視野が狭いと言うことになりますね。
一部の地区の常識を、世界の常識とするんじゃないよ。
君は世界の人口全てをカバーするだけの言葉を持ち合わせているかい?
憶測はいらないよ。事実を見せてくれないか───。

と言うのは世間では屁理屈と言われます。
私、そう言われ続けてきましたが、ここが私の信ずる道。
100か0かなのです。Do or Dieなのです。
常々「屁理屈だ」で話を終わらされてきたことに対して疑問しか湧きませんでした。
私は解っているのですよ。こんな事を言えば屁理屈と捉えられることくらい。
しかしそれはあくまで経験則から「屁理屈と言われる」事を理解しているだけで、
自分自身が屁理屈を言っているつもりは、これっぽっちもござあせんよ。
どうしたいんよ?
私をどうしたいんよ?
取り込みたいのでござあすか?
論破して勝った気になりたいのでござあすか?
そんなこと言ってると、目の前でアンタにナイフ持たせて、私の胸を突き刺させますよ。
そんでもって予めその場に警官が駆けつけるように連絡しといて、アンタ現行犯で逮捕させますよ。
アンタ社会的に抹殺されますよ。家族諸共。
うぐぐ。

とひとしきり取り乱しましたが、私は至って平常心であります。
では、今日はここまで。
皆さん、冷房のかけすぎには十分注意して下さいね。



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