極東最前線

Thursday, January 26, 2006

迅速に果敢に

私、案外せっかちなのです。
せっかちと云ふよりも
「短縮できるところは短縮したい症候群」
と云ふ方がしっくりきますね。

一人で街の雑踏を闊歩するときなんかは、極端なくらい早足です。
するりするりと群衆の中を掻き分け、
ティッシュ配りの兄ちゃんなどには目も留めず、
ましてや「うるせぇ、三下(心の声)」と一瞥をくれてやり、
そこから2歩ぐらい歩みを進めた後に「ごめんね、冗談だよ(心の声)」ともう一度振り返り
兄ちゃんに謝罪と愛の視線を投げかけ、
調子がいいときは「ごめんなさい。やっぱりティッシュ下さい。」と自らの非を改め、
金色の如くに輝く(かのように見える)ティッシュを2、3個頂きます。
そうしてまた闊歩していると、全身からは汗が噴き出し、脚はつりそうになり、もうぐだぐだ。
しかしながら『ここで歩みを遅めたら死ぬ』と意味の分からない焦りで自分を奮い立たせ、
泣きそうになりながらも気合いで高速歩行を続けます。

何故このようなことをするのかと云うと
「街を歩くことに対して、何の興味もないから」なのですね。

「街を歩く」と云う行為の目的は「目標物に到達するための移動」です。
それ以上でもなければ以下でもありません。
どちらかというと省略したい行為です。私にとっては。

「歩くのが好きで歩いています」や
「ダイエットと健康のためにウォーキングをしています」というのは
決して目的が『移動のみ』ではないですよね。
それならばオッケーな訳です。

さてそこで、移動の為に街を歩くことで得られるものとは何なのでしょうか。
自分にとって有益ではない、利益を見いだすことが出来ない現象に
時間をかけているのは勿体ないなぁ…、何て事を思うのです。

勿論、有益なこともあるかもしれませんが、
私には未だそれを見つけることが出来ません。
「お金を拾うかもしれないぜ」とか
「可愛いねーちゃんがうじゃうじゃいるぜ」とか
「路上に剥いてある甘栗が落ちてるぜ」とか仰る方が希にいますが、
それは私にとっては無益です。
なので棄却させていただきます。

しかしながら私、街中での生命の観察(人間観察などと云ふこともあります)は好きです。
様々な人、動物、その他をじっくり見るのは自分にとって有益であると認定しています。
様々な感情の流動する様を見るのは、とても面白い事だと思います。

「じゃあゆっくり歩きながら見たらいいではないですか」
てな事を仰る方も多いと思いますが、
「さてさて。ゆっくり歩いて観察でもしようかいね〜」なんて思いながら歩くと、
これまた極端に遅い。
家に帰るまでの道程が、遙か天竺へ到達するかの如くに時間がかかってしまいます。
私が家に帰るのが先か、地球が滅亡するのが先か、細木数子先生が「ごめんなさい」と言うのが先か。
そんな壮大なテーマの元に帰宅。
それも悪くないかもしれませんけどね。

遅く歩いたら遅く歩いたで、世間様にも多大な迷惑をかけてしまうのですよ。
「この木偶の坊、ちゃっちゃと歩きやがれ。殺すぞ。」
と5分おきぐらいで罵倒、誹謗されてしまうことでしょう。

なので私は、観察を執行するときは、停滞するようにしています。
路上の喫煙スペースで一服やりながら、とか
小粋なカフェ・テラスでカプティーノをしばきながら、とか。

急かさなければならない場所と、停滞してもいい場所があるのです。

学生時分の修学旅行で、広島の平和記念資料館に行ったときのこと、
あまりに熱中して一つ一つを熟読、熟視しながら歩を進めていたので
気付けば周りに学生と思しき人間は一人も居らず、
「あれ?ちょっと早く歩きすぎたかいな?」なんてな勘違いをしたことがあります。
本当はその時点で、皆は全て観覧し終わり、
外で私が出てくるのを天蚕糸ね引いて待っていたわけです。
それでも相変わらずのペースで泣きながら観覧していたものですから、
修学旅行を代行している旅行業者の添乗員様が、慌てて私を呼びに来ました。
「みんな外で1時間くらい待ってるんだけど…」
「え?未だ半分も廻ってないんすけど」なんて。

平和記念資料館は停滞して観察してもいい場所、否、しなければならない場所。
そう私は認識しております。
しかしながら学校側は「此処はサクッと見て回る場所」なんて
戯けた認識をしているばかりに、私は未だ平和記念資料館の半分も見ておりません。
何時かもう一度見に行こう。3日くらいかけて。

己にとって有益な場面?それとも省略しても構わない場面?
それを考えながら行動を起こすと、
自ずと「己が必要としているものが何か」というのが見えてくると思いますよ。

只、焦りは禁物。
「急がば回れ」は物理的に遠回りをしろ、という意味ではなく、
精神的にゆとりを持ちなさい、という意味ですよ。


しかしながら最近では街を歩くときも「鍛錬をしながら移動」を心がけています。
瞬きをしないとか、息を止めながらとか、ハムストリングスを鍛えながらとか…。
何か目的が無いと、苦痛になってしまいますからね。
無理にでも目的を持つ。
しかし省略、短縮できるものならしたい。
そのくらいでいいのではないでしょうか。

緊張と弛緩の間に日常があるのです。
もう一度だけ見直してみませんか?



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