汎愛
働けど働けど、我が暮らし楽にならず。
金もなければ夢もない。
あるのは理想と挫折のみ。
本日は雨。
五月雨の切なさやダラダラとした歯切れの悪さが、妙なほどに心地悪く、
仕事をしていたのですが、荒んできたので帰ってきてしまいました。
いたづらに
雲ゐる山の
松の葉の
時ぞともなき
五月雨の空 (玉葉集・夏)
何てな歌を頭に浮かべながら私もダラダラと歩いて帰ってきました。
只、雨は嫌いじゃないですよ。
雨の日は明るい話をしましょう。
雨の日に暗い話をすると、余計に暗くなるもんですよ。
と言うことで『差別』。
明るい未来作りのための『加藤の教科書』190ページに記載されているこの問題。
はてさて、皆さんは差別と言われるものを、平気な顔して行っておりますか?
私はこの問題を考えるときに、付随して様々な問題が湧き起こってきてしまいます。
収拾がつかなくなる可能性も示唆して、さてお話の続き。
社会には今、様々な「差別」や「偏見」と言うものが蔓延しております。
人種差別や民族差別、男女差別や部落差別など、私達の生活と関係ない話であるとは口が裂けても言えない問題ばかりですよね。
しかしながら近年ではアパルトヘイトが廃止され、
男女雇用機会均等法が整備され、
ホロコースト修正主義へのユダヤ人の激烈な批判がある等、
差別は一般的に言えば克服されつつあると言われています。
そんな私も知らず知らずのうちに何らかの現象や出来事がきっかけで、誰かを差別したり蔑視したりしてしまっているかもしれません。
私の軽率な言動で、誰かが傷ついてしまっているかもしれないと思うと、
おちおち仕事何てしてられない。
今すぐ差別撤廃を意味する、国会議事堂前での座り込み断食を慣行して罪を償おうと考えるも、
ココは大阪。やらない。家で断食します。明日まで。
しかしながら、私は差別や偏見は無くしていきたいと考えている人間の一人でありまして、
実際に私も「偏見」というものに追い詰められていた人間です。
皆さんも一度はそういった体験があるのではないでしょうか。
あんな色白の無政府主義者と話をしてはいけない。
モヒカンで、鋲ジャン着て、たこ焼き焼いてるあんちゃんにロクな奴はいない。
ほぅら、貴様の好きな“イスト”がまたここにもいるよ。
お前みたいな奴がいるから日本はいつまでたってもダメなんだよ。
あのお兄ちゃんのお父さんはキ○ガイだから、あのお兄ちゃんとも喋っちゃだめよ。
何てな事を一度くらいは言われてはいませんか?
これはもう立派な偏見、差別です。
やめて。頼むから。
あの苦悶に喘いでいた時期を考えて、今、私が誰かを蔑視することが、
また苦しみや憎しみを生み出してしまう。
憎悪の連鎖は後に破滅を生み出すこととなるのです。
差別とは偏に「自分の方が優れている」という傲りからくることが殆どであり、
そういった傲慢な考え方がそもそもの原因であると私は考えます。
社会的に差別はなくなる傾向にあるとはいえ、意識的にも潜在意識下であっても
そういった考えを持っていれば、それはもう既に差別なのです。
簡単に言うと「口には出さないけど、考えていたら差別」
と言うことなのです。
考え方を変えると言うのは、人間にとってけっこう難しいことです。
しかしながら、そのくらいのアティチュードで様々な事象に向かい合わなくてはいけないのです。
そんな差別の中で、現代に於いてもまだまだ根強く蔓延っているのが
『職業差別』と言われる差別。
他の差別に比べて正当化する人間が非常に多いと言われるこの差別は、
現代社会で最も頻繁に、且つ深刻な差別と言えるでしょう。
職業、つまり働くこととは、人間が社会生活を行うためには切っても切れないものです。
1日の内の働いている時間というのは決して少ない時間ではないと思います(個人差はありますが)。
そういった多くの時間を費やすことが社会にとって、ある一定の基準を設ける事となっているのです。
「野球選手はかっこいいし儲かる」や「政治家は偉い」、
といったような発言が巷で耳にすることも屡々あることから、
誰かを決定づけるときの簡易的な判断材料の役割を担っているのです。
これは表裏一体、善悪一体、いいときもあれば悪いときもある、
いわば両刃の剣であるといえるでしょう。
省庁や大手企業に就職した人間や、プロ野球選手、競輪選手、芸能人、社長、政治家等になった人間は、それだけで高い社会評価を得、その者の本質や個人的能力、人格的魅力を遙かに超えた、
言わば「成功者」と世間一般では言われます。
しかしながら、社会的評価が低い職業に就いているために、
その者の人格的魅力や社会的地位が不当に軽視されることも頻繁にあるのです。
こういったステイタス・シンボルに左右されない頭を持っているならば、
ここで私が多くを語る必要などございません。
「あの人ホストクラブで働いているから信用できない。」
「政治家なんて全員悪いことしてるわ。」
「あなたギター弾きだから部屋貸すわけにはいかねぇ」
「あんな売女と結婚なんて、お前何考えてんだ!」
何て事言って(若しくは考えて)いやしませんか?
寂しいことです。
転職したら突然全てがOKになるわけでしょ?
何にも本質が見えていないではないですか。
本質の見えない、見ようとしない人間が多く存在している以上は、
世界で差別が完全に消滅することはないのだ。
そんな人達が世界のあらゆる差別に反対する資格はないし、
日本人だからということで、様々な国で偏見をもたれても当然のことだと思わねばならない。
反日感情を持つ、韓国人や中国人等の言葉が己に対して発信されている事だと思わねばならない。
あなたは過去のA級戦犯と同じ国民であるが故に投石されて当然であり、
あなたのご先祖様に召集令状を無視し逃げ続け、非国民と称された人間がいるから、弾圧や万人との軋轢も受け入れなければならない。
と言うことになってしまいますよね。
あなた達の考え、否、脳味噌があるから、世界では戦争や紛争はなくならない。
あなた達の考え、否、プライドがあるから、世界では核兵器がなくならない。
あなた達の考え、否、傲り高ぶりがあるから、世界では虐待がなくならないのだ。
最近政治家になった民主党の女性議員も「元キャバクラ嬢」という経歴が様々な批判を受けているようです。
どこかのテレヴィジョンに出演していた評論家の翁は、
「底辺から出発して…云々」と「キャバクラ嬢=底辺」というような発言をしておりました。
その翁は前にも番組中、
「グラビアなんて品性の欠片もない下劣な女がやるものだ」との発言もかましておりました。
言ってくれるじゃねぇか、てなもんですね。
その翁が普段どんな仕事をして、どんな生活を送っているのかは存じ上げません。
しかしながら彼女たちも私達と同様に、キツイ思いをしたり、
精神的な苦痛を受けたりしていると思うのです。
そして、私自身が職業に対するプロ意識を出していくことを重視して生活しているように、
彼女たちの多くも自分自身の仕事にプロ意識を持っていたり、
そうでなかったとしても、社会の生産活動の一片を担い、
需要と供給の中で、正当な報酬を得ている職業であることに一点の曇りもないのです。
その翁がどれだけ大変な商売をしているのかは存じ上げませんが、
彼女たちはかなりの重圧にも耐えている(そんな翁にメディアで叩かれる等があっても)。
私が思うに、少なくとも今の私(現在はしがない会社員)より大変な商売であるのは火を見るよりも明らか。
私は彼女たちを尊敬しています。同時にホストクラブで働く男性方にも敬意を表します。
そういった職業差別を平然と行える人間の方が私は信じられないし、
「こいつとはまともな話はできそうにもねぇな」と思ってしまい、
そのの考えから、とりとめのない話でその場を繕ったりしてしまいます。
何様のつもりなんだよ、お前がどんだけ偉いねん、と言いたい。
職業で上下なんてないのよ。いいも悪いもないのよ。
職業だけでその人の全てが解るんか?
職業だけでその人の人格全てを否定するんか?
あ?「変な職業差別はあるべきじゃないけど、ちゃんとした職業差別はあるべき」だぁ?
どの面ぶら下げてそんなこと吐かしてやがるんよ。
やめてくれ。聞きたかねぇよ。と言いたい。
私は反戦の観点から「差別撤廃」を謳っているのですが、
やはり様々な声は頂戴致します。
「差別はあるべき」や
「戦争はやむを得ないことであり、子供がそれによって死んでいくのもしかたのないことだ」
など、正直そのような発言を聞くと、後頭部を鈍器で殴られたような感覚になります。
そんな話の時、私も取り乱してしまい、
「じゃあお前が差別されて、お前が戦争で死ねよ。」
と支離滅裂な発言を繰り返してきました。
反省しております。
そういうとき言われた側はこう言うのです。
「俺の職業は差別される対象じゃないし、日本人も差別される対象じゃない。しかし、差別を受けるようならばそれはそれで仕方のないことだと思うよ。その時は俺は後ろめたく生きていくし、日向に出るようなこともしない。一生日陰で生きていくんだ。戦争だって同じ事。日本で戦争が起きたんだったら仕方ないけど、現に今は起きてないだろ?だったら俺は戦争で死なないよ。戦争起きた地域は運が悪かったと思って諦めるしかないね。」てね。
もう何も言う気にもなれんよ。
好きにしてくれ。
「お前死ねよ!お前いっぺん死ねよ!」(長州力が蝶野・天山に向かって)
私、実はこの「差別」に対する問題をこのBlogで書きたくはなかったのです。
「差別」を口にする人間は、差別の社会的現象を大きくしすぎるがあまりに、
差別主義者を刺激してしまい、余計に差別されている側の人間への風当たりが強くなる。
なんていうことも世間ではあるからなのです。
「差別反対」がより一層の「差別社会」を生み出す切っ掛けになっているとでも言いましょうか。
とは言え何も言わない、と言うわけにもいきませんよね。
ジレンマです。
そんな中で、今まで自覚のなかった差別用語という物もたくさんあるものです。
例えば『百姓』は差別用語です(正しくは農業経営者、農家、農業等)。
うちのおかんはバンバン使ってた様に思いますが、
「百姓」という言葉は百の姓、つまり「その他諸々」という意味にあたるから、
というのが理由のようです。江戸時代あたりからあった言葉らしいですが。
「用語」といわれても、その者本人に差別的意識はなく使っている言葉が、
ある日突然に「今日からそれは差別用語なんで、その発言は差別と受け取ります」と言われても、
差別撤廃には繋がらないと言うか、寧ろ差別意識が広きに渡ってしまって
余計に話が拗れてしまうような気がしております。
「土方」や「○○屋(床屋、ペンキ屋等)」と言うのも差別用語らしいです。
言い換えればOKと言われるものなんて言うのは、
ハッキリ言って何だっていいように思います。
「美容師」はいいけど「パーマ屋」はダメなんてのはいきすぎですよね。
うちのおかんなんて「ちょっとパーマ屋行ってくるわ」なんて普通に言ってましたよ。
あんまし何でもかんでも「差別用語」と認定するのは些か疲れますね。
今に何も喋られない時代がくるよ。
1 Comments:
差別はしないように心がけてるケド、偏見はしている時があるような気がする。心がけていてもね。
気をつけないと!!
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