レイシャル・ハラスメント撤廃
最近、と言うか昔から、物覚えがついた頃から、首が据わりだした頃から、
他人の存在が気になって気になってしかたがない症候群、という障害を抱えて、
気付けばもう25になり、陰口を叩かれたり、ジロジロ眺められたり、
思えばいろいろなご意見ご感想を頂いたなぁ、なんて。
バイトの面接(レンタルビデオ屋)では、
ワンウェイ・システムのTシャツに革ジャン、ヒゲ面、病的な色白の表情で参上仕った揚げ句、
「君、そのヒゲ剃れる?」との質問に対して、「宗教上、無理です」とキッパリ断ったが故、
「じゃあ悪いけど不採用だわ」と打ちのめされて、ヒゲ一つで生きづらくなるものだなぁと感じたものです。
宗教上てのは、私の一世一代の嘘、デマカセだったのですが、それが嘘かどうか何て、
この短時間で、店長さんがジャッジ出来るとは到底感じられず、
では、この店長さんは宗教差別を平然と行ったとなるわけで、
私もバイトの面接はもうこの際どうだってよい、となってしまいまして、一言物申したい、
そんな感覚になるわけです。
「あなたの宗教差別が、過去の歴史の中で幾多数多の戦争や紛争を生み出しているのです。あなたの人間性が此の世に存在する限り、人は死に、差別され、苦しみ、藻掻き、飢えはなくならず、地雷もなくならない。あなたは今すぐこのレンタルビデオ屋をたたみ、ボランティア活動に従事することをお勧めします。地雷を取り除く、臓器を提供する、ひたすらトランペットを吹くなどして社会の安定を守ることに勤めるのです。敢えて言ってやる。がんばれ。」
とは言いませんでしたが。
まぁ店の印象てのもあるし、清潔さが売りのレンタルビデオ屋であるのならば仕方がないさ。
ヒゲてのは不潔に感じるんだろ?
夜中のコンビニのバイトじゃねぇんだから(ほぼパンク野郎)、革ジャン野郎はお断りなんだろ?
ワンウェイ・システムの骸骨串刺しTシャツが物騒なんだろ?
私の色白な表情、目つきの悪い切れ長の目が危ない感じがすんだろ?
ヒゲ剃って、『オレンジ・レンジ』さんのTシャツでも着て、ポップでキャッチーな顔に整形したらええんか。あ。どうなんや。
俺が煩わしいんか。嘆かわしいんか。
と卑屈気味に面接していた事務所を出て、レンタルビデオ屋の出口に向かう途中、
店員(バイト)に、「おつかれさまで〜す」と挨拶されました。
そいつ(男)、思いっきりヒゲ面。
お〜い。店長。
結局バイトなんてレコード屋と引っ越し屋くらいしか採用してくれず、それらを掛け持ちで勤しんでいた、私の20歳頃の淡い想い出。
しかしながら、他人様がどのように自分の事を見ているかというのは、実に面白いもので、
時に予想とは懸け離れたご意見を頂戴することがありますね。
今ではそうそうないのですが、
19歳〜23歳くらいにかけて、警官に職務質問されるのが日課になっていた頃がありました。
日課と言うほど頻繁に受けていたわけではないのですが、最低、月に1回くらいは必ずと言っていいほど、
「ちょっといいかな。君ここで何してるんかな?」
と言う質問が私の耳に飛び込んでくるのであります。
何してるんかな?とな?
見たら解るやろ?パン食いながらバス待ってんだよ。
これが銀行強盗してるようにでも見えたんか?
そうなのです。
私はバス停でバスを待ちながら昼食をすます、という習性があったため、
毎日のように平日の昼間っから、そこでパンを喰らっていたため、不信だったのでしょう。
その出来事のせいで、私はバイトなどを幾度となく遅刻。
店長からは叱責や罵倒を浴び、それからというものゲシュタポが憎くてしょうがありませんでした。
権力があれば何してもいいのだろうか。
善良な市民を疑う事が商売ならば、私にだってできる。
彼等に必要なスキルは、犯罪者、若しくは犯罪を行わんとしている人間を見極める「目」を持つことであり、
それが出来ないようであれば、警官に何ぞ就職させてはいけない。
紙切れで計れない能力を身につけることができないようであれば、治安は今後二度と守れないでしょう。
「そんなんできりゃあ苦労しねぇよ」と警察諸君は仰るかもしれません。
苦労の一つもしないで、社会の治安を守れると思っておられるのでしょうか?
人間を片っ端から疑い、絨毯爆撃のように国家権力を市民にぶつけ続けるおつもりですか?
疑い続ければ、たまには犯罪者にぶつかることもあるでしょう。
しかしその代償として「私の反感」があなた達国家権力様の背中には重くのしかかってくるはずですよ。
今後をしっかり見ておくのです。
今に嫌でも解るときがくると思いますよ。
そのバス停には浮浪者が住み着いておりました。
その横で私はパンを喰らっておりました。
革ジャン着ておりました。
丸刈りでした。
『DOLL』読んでました。
全て悪条件。
相乗効果。
何故見た目で皆さん人を決めつけるのでしょうか。
やはり全く見知らぬ人間が目の前に現れたときに、最初に脳に飛び込む情報というのは
「目で見たもの」であり、その見たものを過去の自分の中に蓄積された経験や情報と重ね合わせることで
ある程度予測、推測を立てた上でその人に様々なレッテルを貼るのです。
そのレッテルはいい意味であったり、悪い意味であったりもします。
何かしらの準備がないと、人というのは対人できないものなのです。
後ろから「わっ」とか驚かされたときに、ビックリするのと似ているように思います。
「他人を決めつける行為」とは、脳が戦闘態勢に入る感覚なのです。
負けることは本能が許さない。
負けないために、脳は身構える必要があるのです。
よって決めつける。
様々な決めつけ方があるように思います。
上の私のように、見た目で決めつけられることや、
成功者を妬んで、「こいつ絶対悪いことしてるわ」や「俺の友人は似たような奴やったけど、死んだで」と
七つの大罪を絡めた決めつけ。
嫉妬、妬みからくる決めつけや思い込みが、最も醜く汚い。
もしも私が何かで莫大な金銭を得たときに、それを妬み内部告発、風説の流布などの揚げ句、
揚げ足を取られる形で様々な過去が浮き彫りとなり、逮捕。
どこかの『生きた扉』社の社長さんのように。
あるかもしれませんね。
国籍によっても人の偏見というのは違うもので、
私も日本人には上のように散々罵られ、糞味噌に叩きのめされたりしてきたのですが、
アメリカ人やドイツ人のような酒飲みが多い地域に住む方々からは結構ウケがいいもので、
酒を飲んでいて、隣の人間がその国の人達ならば、かなりの高確率で声をかけられたりしたものです。
居酒屋で、突然『腹切りショー』を繰り広げたりもしたものです。
もちろん米軍や店員は爆笑。
しかし、その他の客(ファッキン・ジャップ)は「変なんおるな〜」みたいな白い目で私を眺めておりました。
米はエンターテイメントが何かを解っているね。
この心意気があれば、プロレスも心から楽しめるのにね。
私はイエローモンキー共を一瞥すると、猿共も私を嘲笑の眼差しで一瞥。
挫けず、明日からも一歩踏みだそうと心に誓った一日だったことを今でも憶えております。
今後、私達の生活の中で、様々な出会いがあることでしょう。
しかしながら、その出会い一つ一つに、一つだけ課題を設けてみませんか?
初めて出会うその人を「こいつはいい奴だ」と決め込んでかかるのです。
それは裏切られることもあるかもしれません。
そいつの逆鱗に触れ、逆上されることもあるかもしれません。
しかしながら、あなたの心は必ず浄化されていくことでしょう。
ポジティブに信じたのですから、それは前進です。
ネガティブを信じれば、世界は後ろ向きに進む一方なのです。
世界とは勿論貴方の中の世界を指します。
その世界の集合体が『社会』となるのです。
『裏切られたときの苦しみが大きいから信じない』
なんてのは悪循環を引き起こす引き金にしかならないのです。
人間、常に不安との戦いです。
しかしその不安の打破が、いかに自分の視野を広げ、行動範囲を広げるか、
皆さんも一度考えてみてはいかがでしょう。
如何に難しいかは皆さんが一番承知のところであるとは思います。
難しいからやらない、打破が困難であるから受け入れて生きる、それは逃避です。
柔軟に生きているなんて思いこんでいやしませんか?
闘わねばならない。
闘い続けなければならないのです。
自分自身の感覚と。
冤罪裁判
『痴漢行為』
皆さんはしたことがありますか?
いやいや、私はしたことありませんよ。いや、ホント。
ホントだって。
突然なんでこんな話題を持ちかけるのかと、私を疑いの目で見ることと存じ上げます。
今朝、いつものように通勤電車に揺られながら、悩み相談の文庫本を読みふけり、
耳に取り付けたイヤーホンからは、周囲の迷惑にならない程度の音量でBAUHAUSのヘレヘレのナンバーを黙々と、時にニタニタと聴いていると、十三の駅に着くやいなや、
「ただ今、車内でトラブルが発生したため、もうしばらくお待ち下さい。」
とのアナウンスがイヤーホンから流れるBAUHAUS越しに聞こえてきたのです。
私は冷静に辺りを見回し、時に巫山戯た男子高校生に
「貴様を見てるんとちゃうんやから、こっちを見るな。童貞が。」と一瞥をくれていると、
突然大声で喚きだしたのは30歳前後と思しきご婦人。
「あんたが触ったんやろ!頭おかしいんちゃうか!」なんて。
最近の駅のホームでは、賑やかに「全国ソフトタッチの会」が開かれているのか。
戦後の日本にも様々な会合や集会が発生しているものですな。
私の中で『会』と付くものなんて「大政翼賛会」と「鳥や爬虫類と戯れる会」くらいしかなかったもので、突然の駅でのこの出来事に、瞬時に頭の中が対応していきませぬよ。
しかしながら、そのご婦人の怒り狂い、今にも核のスウィッチでも押してしまいそうな鬼の形相をみていると、どうやらただ事ではない様子。
ひょっとして、遂に米軍がイランにでも侵攻したのかしらと不安に陥ってしまいました。
私は心配になりイヤーホンを外し、書物を鞄の中へとしまうと、その群衆へと耳を傾けました。
女性が1名、駅員が2名、列車の中の人間になにやらお話をしている様子。
時折女性の「はぁ!?」とか「なんなん、この人!」と言うようなヒステリー気味な声が聞こえてくるだけで、他の会話が何一つ聞こえてきません。
ん〜、これは困った。
話の趣旨が見えなければ、私が急にお面を被り、薄手の布きれをマントのように見立て、
ポンポンポンポンポンポ〜ン♪何て鼓の音色と共に
「ひと〜つ人世の生血を啜り、ふた〜つ不埒な悪行三昧、みっつ醜い浮世の鬼…」と、
桃太郎侍風に参上つかまつって、その群衆に飛び込んでいき刀を振り回したとしても
「ちょっとちょっとオッチャン、収録中なんやから邪魔せんといてくれるかな。ぼけ。」と叱責され、挙げ句の果てに人権を剥奪されてしまうかもしれない。
その時私は『空気の読めない土民』と化してしまいます。
とその時、私の周りにいた学生らしき女性が
「痴漢ちゃう?うっとーしーなぁ」と、その友人等とくっちゃべっていたのでありました。
ほう。痴漢。
その線か。
私がその女学生の大きな声で「あの騒ぎは痴漢騒ぎ」と気付かされるのと同時に、
その他の乗客等も「痴漢騒ぎが勃発した」と先入観を抱くのでした。
辺り一面は痴漢における罪の重さの話や、正しいヒップの触り方、どこからが痴漢行為か、痴漢屋と言われる商売をVシネマで見たことがある等々、
様々な憶測や話題が飛び交って、それはもう聞いているのもウンザリするほどの一大痴漢ムーヴメント。
みんなどうかしているぞ。
Vシネマを日本の縮図やと思っていては、世界はなかなか広がらないぞ。
そうして、駅員に引っ張られ、ようやく車内から男が出てきたのですが、
これまた30歳過ぎくらいのスーツを身に纏ったサラリーマン風の男。
体格はラガーマンのようなゴツイ風体。
しきりに男は「やってない」を連発しているところから察するに、やはり痴漢での揉め事だったのでしょう。
男は涙を浮かべ悲しいような、又対する女性に明らかに敵意を剥き出しにした怒りの眼差しで、
必死に弁論をしていました。
「こんなブサイクのん、誰が触るか!ボケェ!」
「自意識過剰なんじゃ!死ね!」
「うっさい!ボケ!殺すぞ!」
と言ったような、とてもお上品な言葉で女性をひたすら罵倒。
テレビドラマや小説などでは、こういった場合の男子は
「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」がセオリーなのですが、
このラガーマン風の男は刀を地面に置くどころか、完全に抜いてぶんぶん振り回しておった訳です。
一歩も怯まず、立ち向かっていたわけですね。
そうして電車も出発し、私は窓の外を眺めながら、その痴漢行為のことについていろいろと考えていました。
もし、その痴漢行為が冤罪であったならば…。
痴漢行為全般に言えることなのですが、痴漢が起きた瞬間、女性がまず騒ぎます(堪える人もいますが)。
それを見た我々は、まず真っ先に痴漢行為があったのではないかという憶測を立てる。
痴漢行為そのものに、男子と女子どちらに非があるかと言えば、紛れもなく男子。
そうして何の疑いも無しに、我々はその男子に畜生のレッテルを貼る。
その被害者、加害者共に、自分の知り合いでないことの方が多いと思われます。
もしもその行為が冤罪であったとしても、私やその刹那にしか顔を見ることがないような群衆の中に於いて、そんなことを知る由はありません。
群衆の中での彼は生涯痴漢の罪を背負って生きていくこととなるのです。
そうなると加害者である彼の社会的地位は崩壊し、嫁や子供にも逃げられ、職は失い、親からすらも勘当。
街を歩けば、他人の目が気になって気になってしょうがない。
夜になれば、悪夢と緊張感でおちおち寝ていられない状態が続き、
揚げ句精神科へ通うも、すぐに金がなくなり闇金へ手を出し始める。
それを機にヤクザ風情のゴツイあんちゃん共から追っかけ回され、どつき回され、
結局何もなくなった彼は、橋の下での生活を余儀なくされる。
そんな時に出会った浮浪者歴30年のベテラン、ショウさん(66)に出会いブルーシートでの共同生活が始まる。
「俺、昔さぁ自動車産業で有名なト○タで働いてたのよ」
「ショウさんてエリートなんすね。でも僕もマイ○ロソフトで勤めてたんすよ。」
「あぁ、あの世界一の金持ちのビルなんとかがやってる」
「そうっす。でも変な出来事が切っ掛けで退社を促されちゃって…」
「なんだ、横領でもやらかしたのか。イヒヒ。」
「違うんすよ。痴漢の疑いかけられちゃって。」
「痴漢て電車ん中でか?おめぇそんなことしちゃいかんよ。」
「ち、違うんすって。冤罪っすよ。僕はやってない。でも裁判とかになっちゃって会社のみんなも僕を白い目で見るようになっちゃて…。なんだか居づらくて。」
「そうか、おめぇもか…」
「え?じゃあショウさんも…?」
「ああ、俺の場合は自分の男性器を女性に擦りつける型だがな。他人様のを触る型じゃない」
「…」
「…」
「…やったんすか?」
「やった」
「…ダメじゃないすか。」
「ダメだ」
「僕のは冤罪の話なんすけど…」
「俺のは執行猶予がついた話だ。」
「別ですよねぇ」
「別だ」
「耐えられないんで出て行きます」
と言う風な話が繰り広げられ、彼は没していきます。
それが冤罪であるにもかかわらず、彼は社会的に死ぬのです。
何もしていない彼は、自殺をすることでしょう。
上に記したような例は、
「冤罪によって廃人化したケース」でありまして、その他にもあるように思えます。
例えば「冤罪によって凶暴化するケース」と言うのもあるように思います。
痴漢の罪に問われ、警察で度重なる尋問を受け続け、100日以上にも渡る拘置所生活。
彼は冤罪であることを訴え続け、家族も駅などでのビラ配りに奔走するわけです。
尋問にもひたすら耐え、無罪を主張し続けました。
これは冤罪だ。あの女を連れてこい、と喚き散らし警察の心証も最悪。
そうして外に出てきた頃には、会社もクビになり、怒りの矛先は『罪を着せた女』にのみ向かって、
拘置所をでたその足で、サバイバルショップに行きバタフライナイフを購入。
そして女を探しだし、自宅へ戻ってくるのを待ち伏せ強姦の揚げ句にズタズタに切り刻み殺害する。
それでも気が治まらない男は、女の死体を家族へと送りつけるのです。
『お前等が全て悪いのだ』というメッセージを添えて。
と言うのが2つ目のケース。
今朝の一件の場合は後者、『凶暴化のケース』の弱い感じのような気がしてなりません。
ボロカスに罵倒をし続ける男と女の姿は、見るに堪えられないほど醜いものでした。
しかし被害者の彼女の視点から考えてみると(私は男なので本質とまではいかないかもしれませんが)、
『この人は本当に触った。少なくとも私はそう感じた。』という感情か
『こいつを痴漢に祭り上げて、金でも分捕ってやろう。』という感情のどちらかが見え隠れしているように思えます。
先に断っておきたいのですが、私は痴漢をする男は最低だと思っております。
男女差別的な考え方は全くないのですが、区別することは必要であると考えておるのです。
なので、上のような女性の見解は、逆に痴女が現れたとしたときの男性側の見解でもあると言うことです。
痴女が電車内で現れて、叫び散らす男も少ないとは思いますが、痴女が蔓延する社会にいずれなっていった場合、男性の我々でも、そのような感覚になる人間はいる、ということなのです。
本当の男女平等化社会を私も目指している一人であることを忘れないで頂きたいと思います。
なので、電車に女性専用車両があるように、男性専用車両というのも作ってください。
私は一生乗りません。
冤罪とは何一つ利益を生みません。
寧ろ、悲しみを生み出すケースの方が多いのです。
過去に何かの罪を犯した人間は、尚更疑いを持たれることが多いように思えます。
「お前過去に窃盗で捕まっとるやないか。どうせ痴漢もやったんやろ。」
と言った感じでしょうか。
一つ一つの事象として捉えてはもらえないのです。
自分自身の道につけた窪みや傷は、後からついてくるものにとっては障害でしかないのです。
障害と言うよりも『目障りなモノ』とでも言いましょうか。
『罪は冤罪を生み、冤罪は新たな罪を生む』
疑わしきは罰せず、と言うのが日本の法の精神。
冤罪は疑いをかけられている段階であるにしても、社会的には罰せられているのも同然。
生きて屍となるその様を、我々は眺め軽蔑し、嘲笑の後に目の当たりにするのは人間の尊厳と死。
感覚として疑わないことを徹底するというのは難しいと思いますが、
疑ってしまった自分に非がないかを自分に問いかけてみるのも大事だと思います。
今朝のあの男性はあのあとどうなったのでしょうか。
一つアドバイスができるとするならば、まず真っ先に自分の身分証明をすることです。
免許証なり保険証なりを提示し、何があっても駅員事務所などには行かないことです。
「用件があるなら後日連絡を下さい」と伝え、その場を後にするのです。
事務所に行くことは法的には拘束となるので、身分証明後に断ったにも関わらず連れて行かれたとするならば、違法行為なのです。
その時点で裁判では確実に勝利なのですが、もし事務所に行ってしまったのならば、当番弁護士を頼むことです。初回は無料ですから。
このスキルを身につけ、準備をし電車に乗りましょう。
危険予知という点では大事な要素ですよ。
では、明日の通勤に備え、六法全書でも読んで寝ます。
舐めるなよ。
私の中のハッスル16
笑えども、笑えども、
その刹那だけの楽しみ。
楽しむ感覚を継続するためには
自己の鍛錬が必要となる。
刹那の楽しみを、己の中でどのような形で膨らませるか。
想像や妄想を膨らませ、エンターテイメントをもう1ランク上のものとすることが出来るか。
エンターテイメント=セカンド・ライフ
その方程式にすることができるか。
笑う方が幸せか、只々日々の人生、事象が起きてからそれに反応するだけの方がいいのか。
事を自分で望み、それに奔走するのか、
それとも受動態のみの人生を歩むのか。
私の望む社会にエンターテイメントと言う分野は欠かせない、と考えています。
人は笑顔が一番美しいと考えているからなのです。
決めつけと捉える方も多いとは思いますが、
貴方自身が快楽を望んでいるか、重苦を望んでいるかを考えてみてください。
楽しいことの方がいいに決まっていますよねぇ。
私は楽しいことの方が好きですよ。
エンターテイメントにも様々な形があるものです。
第3者が観て楽しめるものは、エンターテイメントと位置づけられるに相応しいと思うのですが、
第3者も大勢存在するわけですから、その観ている人間全てを楽しませることが出来るかというと
そうではないものです。
先日、職場の友人に誘われ、『ハッスル16』を観戦してきました。
つまりはプロレスなのですが、日本の今までのプロレスとは少々ベクトルが違うプロレスな訳です。
エンターテイメント路線に徹底した、正にファイティング・オペラ。
戦い云々と言うよりも、ドラマティックな展開を感じるためのプロレス。
アメリカのプロレス団体WWEのそのシステムによく似た、
ドラマを見ているような感覚になるのです。
私、WWEが好きでよくテレヴィジョンで麦酒を煽りながら観戦しているのですが、
戦い、つまりは技の凄さ等は『あって当たり前』と感じているのです。
プロレスラーなのですから、技のかけ方かけられ方は上手くて当たり前。
そして高度な技、ラナ系の技やダイブ系の技なども織り交ぜてくるのは当たり前であって欲しいわけです。
勿論、上手い下手の差はあると思いますが、それはそれでオッケー。
というのもキャラクターを重視して欲しいという私の勝手な願望があるからなのです。
WWEでは、『SmackDown』と『RAW』と言った2枚看板番組がありまして、
日本のプロ野球で喩えるならば、セ・リーグとパ・リーグの2つの団体に分かれているシステムであると思って頂きたい。
SmackDownに所属する選手はRAWには出演しないし、その逆もあるわけです。
しかし団体としては同じWWEの選手ですから、月1回のPPV(特番)で闘うこともある、というシステム。
その中にドラマを織り交ぜてくるわけです。
さも垣根が高いように思わせておいて、その高い垣根を困難に超えたかのようにPPVでの試合を盛り上げる。
全てが高度な技術を要する脚本に出来ていることなのですが、
我々WWEファンはそんなことはどうだっていい。
プロレスを観ているのと同時に、ドラマを見るような感覚で楽しんでいるからなのです。
そう、あなた達が月9のドラマを見て、キムタクさんの表情に一喜一憂するように、
私達はHHHやアンダーテイカーの悲しみに一喜一憂する訳なのです。
私が『ハッスル』を生で観戦して感じたことは、
「何だか日本のプロレスじゃない感じやな〜」
と言う感覚です。
私が今まで生で観てきたプロレスで、あんなに女性の入場客が多かったのは初めてですし、
あんなに笑ったプロレスも初めてでした。
本当の職業がプロレスラーではない人間(インリン様やレイザーラモンHG等)が
プロレスという看板を立てたイベントで、あれだけのパフォーマンスが出来ることに
ただひたすら感服しましたし、感動すらも憶えました。
それは偏にマーケティング、コマーシャリングの上手さが光っているのだと思います。
そして何よりも嬉しかったのです。
「日本の格闘技業界は、まだプロレスを捨てていなかった」
ということに感動しました。
最近の日本の格闘技業界は、どうしても総合格闘技やリアルファイトのスタイルに
こだわりすぎてしまっていて、PRIDEやK-1といったリアルを求める格闘技が主流になってしまっている傾向にあります。
そこで、如何にプロレスはそれらリアルファイトを差別化しプロレス独自の美学を追究していくか。
その追究の揚げ句が「ハッスル」凝縮されているように思える訳なのです。
しかもPRIDEにしてもハッスルにしてもDSE(ドリーム・ステージ・エンターテイメント)が手がけていると言うところに感動を覚えてしまうのですね。
「総合格闘技は、まだプロレスを見捨てたわけではなかったのだなぁ。」
「格闘技ファン=プロレスファンではないことをDSEはわかっていたのだなぁ。」
なんて。
何はともあれ、TAJIRIが見れてよかったです。
以上、感想文でした。
固い男
幼少時代の自分の作品というのは面白いものですね。
おっと、不躾ですいません。
今夜、皆さんにお届けする極東最前線は、
「その昔、知らぬ間に自分が残した作品集」
と題しまして、小学校時分の加藤という男の作品を振り返ってみたいと思います。
そう。
今現在、巷で騒がれている『リバイバル・ブーム』に乗っかろうという試み。
一口に「昔の作品」と言っても、
「またこのボンクラは滑稽なことばっかし言いよってから。何が『作品』や。そんなもんハナから無いやろが。貴様の人生で足跡を残すようなもんは、この世に、少なくとも今シーズンいっぱいは生まれへんわ。ぼけ。それやのに何が幼少期の『作品』じゃ。笑わすな。このうずら。ケツの穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わすぞ。包茎大学でもいけ。」
と言うようなことを皆さんはお思いなのではないでしょうか?
無理もありません。
私の説明不足でした。
深く反省しております。この通り。堪忍やで。
と言うことで少々『作品』と言う言葉の趣旨を説明します。
保育園、幼稚園、小学校等で、『何か自分の思い描くものを創造する授業』みたいなのってありましたよね。
例えば、工作の時間や家庭科の授業。
図工や美術、技術と言ったような授業です。
その中で、皆さんは様々なものを作ってきたことと存じ上げます。
その様々なものを、今日のお話の中では作品と言うことにしています。
地域によっては『産物』と言ったり『苦汁』と言ったりもします。
米国では『エブリシング・バット・ザ・ガール』と言うようです。
呼び方は様々ありますが、今日は『作品』で統一することにいたしますので、
皆さんご了承下さい。
私も幼き頃は想像力豊かな、確かな目は持てずとも可能性だけで歩みを進めていた、
栗毛の色白で可愛らしい子供だったのであります。
そんな私の小学校時分の作ったものと言うのが今でも実家に残っているのです。
恥ずかしさ反面、自分の発想力、着眼点に時々驚かされたりもするものです。
時に時事問題に触れ、時に大和民族の憤りに触れ、時に幼稚な美談に踊り、
語ることこそ少ないが、大人になった私に問題提起をしてくれる素晴らしい作品を残しているのです。
そんな作品集の中に、一冊の絵本がありました。
これは図工の時間でしょうか、絵の具で画用紙何枚も使い、中綴じで製本されたその絵本は、
文章力こそ幼稚で表現の幅も狭いのですが、自分でも何でこんなものを書いたのか解らないほどに
暗く悲しい、そして様々な投げかけをしてくれるストーリーが描かれていました。
では、絵のほうは紹介できないので残念ですが、ストーリーを紹介したいと思います。
リバイバル・ブームと言うことで、現代の加藤イズムを交え、
オリジナルストーリーを保ち、言い回しは現代の加藤調でお送り致します。
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タイトル
『固い男』
時は安政5年(1858年)、日本は動乱の世を迎えておりました。
安政の大獄により多くの志士が粛清される中、
活動家達は言葉を発することの恐怖に怯え、帯刀することの重み、
列国への恐怖、愛国心、様々な感情に揺れ動かされておりました。
幕府は一体どうなってしまうのか。
朝廷は一体何を考えているのか。
日本の今後は一体どうなってしまうのか。
福井藩主である松平慶永も隠居謹慎を言い渡される中、
独自の意見を持つ荒木鉄心も揺れておりました。
荒木は幼き頃に自らの手で父親と母親を寝ている隙に父親の刀で斬り、
両親を亡くし、孤児として孤児院で育ちました。
彼は父親と母親を自分の道にとって邪魔な存在だと感じていたのです。
自分の周囲の友が、親と共に鞠や人形遊びに熱心な頃に、
彼は父親から剣の道を志すことを教育され、日々稽古に明け暮れていました。
その稽古の中で父親は
「敵に情けなど無用。抜刀し向かい合えば、どちらかが死ぬのだ。のたれ死にたくなければ斬れ。敵には親も友も許嫁もいないと思え。貴様は鬼なのだ。刀を抜こうが抜きまいが、貴様は鬼となり何人の刀も寄せ付けてはならぬ。敵が抜く前に抜け。」
と精神論を説かれ育ちました。
そんな彼は思ったのです。
「敵に親はいないかも知れんが、自分にはしっかり両親がいるではないか」
そんな自分が、敵に無情の鬼となり立ち向かうことが出来るのだろうか。
信じる道を己自身が踏み違えているではないか。
そして彼は親を斬ったのです。
返り血を浴びた荒木は心に誓ったのです。
是が『無情』と言うものだ。
開国だ攘夷だ何て事は己には無関係なこと。
しかし、強靱な剣の腕を持つためには1000人斬らねばならぬ。
私は何が何でも1000人斬らねばならないのだ。
女子供だろうが年寄りだろうが帯刀していなかろうが、
私は鬼だ。
情け容赦なく、ましてや贔屓などせず、徹底的に斬り、
万国の驚異となるのだ。
目的?そんなもんありもせん。
私は鬼なのだから。
民の驚異となり、恐れられる為だけに在り続ける存在なのだ。
年月は経ち、荒木は年の頃14になり、孤児院の全ての人間を斬りました。
そして孤児院を焼き払い人斬りの旅に出たのです。
彼は斬り続けました。
100人、200人、時には岡っ引き何十人に囲まれても彼は全てを斬りました。
民は荒木のことを『人斬り』『人間の皮を被った鬼』『カラクリ殺人剣士』と罵り、恐怖に怯えました。
彼には親は勿論、会話を交わす友人も居なければ恋人すらもいません。
ましてや彼の名前すらも皆が知らないほどに、世間との繋がりを断ち切っていたのです。
彼は感情という、人間の中で最も弱い部分を完全に捨てていました。
荒木の斬りっぷりの躊躇いのなさに、民は震え上がっていたのです。
彼に慈悲を求めるなど無意味なこと。
彼に睨まれたら最後。
逃げるか、抜刀し闘うか。
300人、400人、彼は15歳になるまでに800人以上の人間を斬りました。
壬生浪士組でさえ、彼の行動に恐れをなして近づこうとはしませんでした。
壬生浪士組が幕府お抱えとなり新撰組に名称を変更してからは尚更。
尊王攘夷派の取り締まりに追われ、荒木の傍若無人なその行為には目を向けてはいられないのです。
そんなことは知ってか知らずか、荒木は斬り続けました。
しかし、荒木の行動にも翳りが見え始めるのです。
それは、彼の首に報奨金がかけられたことが切っ掛けでした。
幕府が治安維持強化のために、荒木を排除すべきと判断したのです。
荒木はまだ子供。
そんな子供の首に報奨金がかけられたことを、一部では批判もありました。
しかしながら、その情けが我々を殺すのだと皆気付き始めていたのです。
子供だろうが彼は鬼だ。子供の皮を被った鬼なのだ。
幕府は彼が現れた情報が入れば、すぐさまその場所に隊を送りつけました。
そしてあらゆる手段を用いて彼を殺害することを計画し実践しました。
そして度重なる戦いの中、拳銃という伴天連の武具により、荒木は負傷してしまいます。
拳銃の弾により刀が折れ、その破片が両目に突き刺さり失明してしまったのです。
彼は暗闇の中で思いました。
私は鬼だ。
無情の鬼だ。
光を失ったくらいで、その闘志が消えることはないのだ。
初めて人を斬ったとき、そう、両親を斬ったとき、私は心に誓ったのだ。
1000人、否、全てを斬り尽くさなくてはならないのだ。
無情だ。無情なのだ。
そして彼は幕府の兵により、背中を斬られてしまいました。
意識が朦朧とし、己の死の近さを実感するのです。
嗚呼、志半ば。
世捨て人の行く末がこれか。
しかし荒木はこのとき気付いてしまうのです。
『人間に一番固執しているのは己ではないか』
世を捨て、人を斬る。
何と矛盾したことではないか。
人を斬ることに固執しているようでは、世を捨てたことなどにはならないのだ。
親の教えを忠実に守っているような人間が、何が無情だ。
私は一体なにをやっているのだ。
何の為に親を斬ったのだ。
何の為に何百人もの人間を斬ってきたのだ。
荒木の全てが崩壊していきます。
荒木は崩れ落ちながら、途中から折れた刀を己の首に突き刺し死にました。
悲しきかな、それが丁度1000人目となるのでした。
彼の死後、民は彼のやってきたことを振り返ることを頑なに拒み、
子供達にそれを伝える事などは暗黙の内に法度となっていました。
荒木は紛れもない『負の遺産』を民に残しました。
しかし、荒木から民が学んだことも多々あるのです。
『時に情を捨て決断しなければならない』
20世紀のこの時代。(当時)
殺人や戦争がまだまだ頻繁に起こっています。
少年犯罪も増え、「子供だから」という理由だけで保護されている時代ではありますが、
必ず、この荒木鉄心に振り回され続けた民のように、決断を迫られる時代がくることでしょう。
その時我々は冷静な判断ができない現代社会に愕然とすることでしょう。
分厚い重りのような六法全書と、事が起きてからでなければ発動しない国家や警察、様々な権力。
様々な不安要素を打破、改善することが出来るのでしょうか。
この荒木鉄心から学んだことを、生かすも殺すも私も含め皆さん次第です。
鬼にならなくてはいけないかもしれませんね。
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…
調子に乗ってかなり着色してしまいました…。
しかし、ストーリーとしては寸分の狂いもなく同じです。
『固い男〜2006Re-Mix版〜』
と言うことで勘弁してください。
当時、根っからのおじいちゃんっ子であった私は、
じいさんと一緒に、頻繁に時代劇を見ていたのです。
で、こんなん書いたのでしょう。
あんまし当時の事なんて憶えていませんが、勿論ネガティブなこと書くもんだから、
あんまし評判はよろしくなく、特別な評価もされなかったように思います。
それはいいのですが、どんな感情で書いたのかが全く憶えていないのは残念。
問題提起としての完成度は高いように思えるのは私だけでしょうか?
自画自賛ではありますが、強いて言うなら、ちょっと爪が甘いな〜なんて思いますね。
オチが弱いし。
で画竜点睛ということでRe-Mixしてみました。
まだちょっと足りないか。
ということで温故知新。
昔のことを皆さんもちょっと思い出してみてはいかがですか?
新しい発見や感情がたくさんあると思いますよ。
血の雨の一滴
さり気なく呟くその一言に、いちいち落胆する私。
貴方のその何気ない一言に私は考えさせられる。
苦悩と闘争心の塊である此の嫋々の風の囁き声は、
又私の無能さに拳を突き上げるばかり。
何とも人間。
其の目覚めの中に、私の目覚めも含まれるのか。
この身、喩え滅びても、我が咆哮は屈せず。
叫びは届かずとも、燻り続ける。
火種は何れ業火となり。
せせらぎはは何れ疾風となる。
地獄で会おう。
誰も居ない地獄で。
墓場で会おう。
皆が居る墓場で。
雨は強く降る。
しかし全て水には流してくれない。
万物全ては雨。
雨で始まり、雨で終わる。
時雨の裁きは、感じぬまま。
荒野に整然と連なる孤独と不安。
春夏秋冬の雨はきっかけであり、また幾重にも重なる苦しみでもある。
雨は呼び覚ましてくれる。
天土の恵みを、人の怒りを。
悲しい話は晴れの日に話す。
雨の日に話せば落ち込むばかり。
晴天の元、悲しみの話は相殺される。
孤独は太陽が掻き消してくれる。
太陽も孤独。
同じ類だ。
目に映らないほどの雨は、己の器では到底足りない。
雨は偉大。
生産力の鏡。
我々土民は雨無くしての芽生えはない。
無条件の生産は人間にはできない。
特に我々日本国民には。
雨は労働者の見本である。
雨は無条件に降り続ける。
雨は。
また咆哮は自我を超越する。
私の知らないところで、叫びが一人歩きする。
私は言っていない。
「憶測の私」は悪であるが、存在は否定できない。
矛盾の庭で彷徨いながら、出口も見えない堂々巡りを、
いつまで続けるかは解りもしない。
人間であることの固執。執着。
抜け出さねばならないが、自分自身でそれをまた阻止しているのだ。
人のせいにしている。
責任は自分には無いと思っている。
人々の無関心さを呪い、
自分の無責任さを露呈している。
他人の関心への執着が、自分自身から目を逸らすことなのだ。
見えないものを見ようとしても、そこには誤解しかない。
まず見えるものを見なくてはいけないのだ。
自分自身を見なくてはいけないのだ。
雲煙過眼の精神で人間を見、
真理の道に達するため、現状への執着を断たねばならない。
行雲流水、雨の流るるが如く。
人生とは糸。
細く長く、色も様々。
紡いではその強さを鍛え、
時に他の綻びをも繕う。
そのもの自体は地味であり、主役に躍り出ることなどない。
誰かを補い、また誰かに補えられ、
己の終わりの近し時には、他を繕うことはできないまま、
何も出来ないまま、半端な長さのままに、その役目を終える。
灰滅を知る者は糸を断つ。
その生涯は半端に残ることは無く、
余力を余して幕を閉じる。
知らねばならない。
糸であることを自覚し、捨て去らねばならない。
それが、個の集でなくして集の個となること。
しかし個の集も偏に個であり、
集の個も偏に集なのである。
雨は水の集まりであるが個である。
雨は雨なのだ。
雨の目的や意志は一つなのである。
我々は雨にならねばならない。
天の浮雲に潜伏し続ける雨であり、
合図と共に落下の一途を辿る雨にならねばならない。
目的は一つならば分かり易い。
3つも4つも60億個も在るが為に、人々は迷い、彷徨い、苦しむのだ。
淘汰される宿命は、いい加減うんざりだ。
宿命や運命は聞き飽きた。論理をくれ。理由を与えてくれ。
そうしないと、私は理由をでっちあげるばかりだ。
私を止めたいならば、納得のいく説明と理由をくれないか。
拳は理由にはならない。
言い訳は理由にはならない。
理由の言い訳はもうたくさんだ。
言い訳の理由を聞かせてくれないか。
己の矛盾に気付かず、今日もまた命令を繰り返す。
己の発言の正当性は己にしか真理は解らない。
早口は矛盾を曝す引き金になる。
ゆっくり話すのだ。ゆっくりでいい。
雨脚は強くなるばかり。
雨音は私を今日も急がせる。
明日は雨が微笑むだろうか。
助けてくれとは言わないが、
せめてそっとしておいてくれないか。
Queen Save The God
思い起こせば、私の人生の中において素通りしてきたバンドや曲などが多々あるもんだな〜なんて。
あんなにオキシモロンとか聴いてるのにビートルズをあんまり聴いたことなかったり、
ポイズン・アイディアなどを愛聴しているにもかかわらず、レッド・ツッペリンの曲はブラック・ドッグしかしらなかったり、
ブラック・サバスはけっこう聴くにも関わらず、オジー・オズボーンのソロの曲は1曲も知らない…など。
王道からちょっとばかり逸れてしまったのでしょうか(どっちが王道でどっちが邪道かなんてわかりませんが)?
いつの間に私も路頭に迷っているのですね。
そうして今まであまり踏み入れなかったバンドの1つに『Queen』があります。
あんなに有名で、最近でも頻繁にコマーシャルの中でかかっていたりしますよね。
しかしながら曲自体は知っている曲が多かったりするのですが、CDやレコードを1枚しか持っていない。
しかもそのCDというのも、私が14歳の時分に購入した輸入盤の『Made In Heaven』。
ちょっと恥ずかしいですよね。否、かなりか。
当時は日本盤は若干値段が高くて買えなかったのです。
案外今も輸入盤のほうを好んで買ってしまうのですけどね。
しかし『安価なほうをチョイスして購入した』ことが恥ずかしいのではなく、
生まれて初めて購入した洋楽のCDがQueen。しかもMade In Heavenなのですよ。
何故だか「初めて買ったCD」の話というのはこっぱずかしいものですよね。
ちなみに初めて買ったCD邦楽部門は『爆風スランプ』だ!何や!文句あんのけ!
その次に買ったのは嘉門達夫じゃ!
しかし今だに Made In Heaven に収録されている曲は時々口ずさんでしまいますね。
なんでこれを買ったのかは憶えていませんが、これ以来Queenの音源を手元に置いたことはありません。
にも関わらず、フレディー・マーキュリーの『動きモノマネ』はよくやったもんです。
くねくねと、しかし上体は反らし気味の、俗に言う「気持ち悪い動き」。
今度機会があれば、披露致します。
これだけは自信があります。
そうだ、携帯動画にでもして、ネット配信でもしようか。
世界中の不特定多数に送りつけようかしら。うふふ。
私の奇跡の舞い。フューチャリング・フレディー・マーキュリー。
今後の人生で、尊敬する人物をフレディー・マーキュリーだと公然と宣言してもいいですね。
「尊敬している人物はフレディー・マーキュリーとアナン事務総長です。」
なんていうセンチメンタル・ジョークが通用する日本人になってください。
どういう意味があるのかは自らで考えてくださいね。
期待していますよ。
しかし、私はQueenの音楽にとことん触れていなかったわけでもないのです。
ついつい自転車に乗るときなどは「バーイセコ♪バーイセコ♪」と気持ち悪いくらいの高音で歌っていたりするのですよ。
知らず知らずのうちに耳にしていたりするのですね。
記憶の片隅にQueenの記憶があるのです。
なぜ、今日いきなりQueenの話題なのかというと、
民主党の党首選挙において、小沢一郎氏と菅直人氏の話題がテレヴィジョンで毎日のように取りざたされる中、私の頭の中で 『We Are The Champions』 が流れるのですが、
「ウィーアーザチャーンピョン♪ ウィーアーザチャーンピョン♪ 小沢〜(オブ・ザ・ワールド)♪」
に聞こえてしまい、四六時中頭の中がかき回されているからなのです。
最後が「小沢〜♪」で終わる曲なんてなかなかないですからね。
嗚呼、別に小沢氏贔屓な訳ではないのだよ。私は。
小沢は私達の王者。
なんじゃい。それは。
と、言うことで党首は小沢議員なのではないでしょうか。
最近QueenのVTRをゆっくり見る機会があったので、ちょっと研究していたのですが、
やはり、私の動きにはまだまだ「隙」があるように思います。
恐らくフレディー・マーキュリーは歌っている最中に暴漢に襲われたとしても適切な対応が取れるであろうと思うくらいに「隙」のない動きをするのです。
目は閉じています。
しかし、彼は見なくても感じることで全てを察しているかのような動きをしているのです。
『近くを弁え、遠くを見よ』
と、その昔、加藤という一兵卒が言っていました。
近くに在るものなどは知っていて当然であり、それに固執しているようでは一生うだつが上がらない。
遠くに在るものを見ようとしなければ、前進できないのです。
目標は常に己の届くか届かないかくらいのところに置かなくてはいけない。
全ての事象に当てはまる、深い言葉であると思います。
フレディー・マーキュリーもこの言葉を実行していた兵だったのです。
近くに在るアンプやドラムセット、観客の位置などは当然のように分かっていて、
目を閉じたままでもステージの上を縦横無尽に動き回れるのであります。
彼が見ていたものは常にどこか遙か遠くなのです。
自分のことに当て嵌めてみてください。
貴方の悩み、苦しみ、憤りが全て近所の出来事で形成されていませんか?
それが一概に悪いことであるとは思いませんが、
箱庭で闘う自分を客観視した時のことを想像してみませんか?
新しい憤りが生まれませんか?
しかしそれは、近くの事ではなく、遠くの事なのです。
今まで見えていなかったことを見ようとすることが、遠くということなのです。
くだらない話はやめにしませんか?
面倒くさいことは勘弁してくれませんか?
結果が出たのか出ないのか解らないくらいの出来事に一喜一憂するのは辛いことですよ。
私は耐えなくてはいけない。
私の人生は忍耐の人生であったと死ぬときに寂しく、且つ喜びに満ちた顔で嘆くことでしょう。
我慢しなくてはいけない。
私は。
私は、耐える。
公然と宣言します。
私の怒りは世界。
安寧秩序の打破と東亜新秩序の構築
万国の人々が共存共栄するためには、いったい何が必要なのか。
私の中で、日々渦巻く感情です。
世界市民が共に補え合える社会とはいったい何なのか。
そして、精神状態を共存するためにはいったいどうすればいいのか。
一口に共存と言っても、様々な形があるように思います。
経済的に共存するのか、精神的な意味合いでの共存なのか。
経済的な共存を望むのであれば、マルクス主義、つまりは共産主義社会を目指すという考え方も、一理あるように思えますが、後者、精神的な意味合いでの共存を望むときに、我々はどのような思想を基盤に生活していかなくてはいけないのか。
確かに富の再分配なくして、精神的な富は得られないとの考え方は、私の中では正解の一つではありますが、唯物史観として最終段階の共産主義に発展した後にあるものとはいったい何なのか。
共産主義で富の共存が完了された後、万人は精神的な共存を完達しているのだろうか。
経済思想には、やはり様々な形式・思想が在るもので、それら全てはあくまで「経済が基盤となる考え方」であることを忘れてはいけません。
共産主義だけをとってみても、マルクス主義、レーニン主義、トロツキー主義、主体思想、等々。
挙げだしたらキリのないほどなのです。
しかし、これらの綱領の表向きは、経済的な意味合いは薄く、内面的な、突っ込んだ部分の思想を謳っていることが多いのです。
「モチベーションの高い人間の集合体であれば、経済的にも精神的にも満たされるよ」と。
基本的にはこのような部分であるように思います。
私は最終的な段階に突入するための経路としての共産主義社会には賛成なのですが、
共産主義社会を最終段階とする考え方にはまだまだ疑問が残ります。
創造→破壊→創造の繰り返し。唯物弁証法。
暴力革命必然論などは、未だ私の中に腑に落ちない部分があるのです。
『目的は手段を正当化する。』
とセルゲイ・ネチャーエフが残した言葉はプロレタリアートでもブルジョアジーでも、
暴力は目的があれば正当化できると言うことも含まれているのでしょうか。
革命の為の暴力だけではなく、強要するための暴力も又必要であると。
独裁や、社会主義という段階が必要なものなのでしょうか。
私には解りません。
しかしながら、トロツキー主義にも同感する部分というのは多々あり、
その一つには永続革命論があります。
革命によりプロレタリアートの政権が高々一国で成立したとしても、それは目標を完達したことにはならず、
目標は、全世界での共産主義社会を実現することなのだという世界革命論がそれです。
かの有名な四月テーゼもそのようなことの綱領であります。
二段階、五段階革命では不十分。
プロレタリアートの政権維持のためには、万国での断続的な革命は必須であり、
その為にはプロレタリアートが革命をリードして然るべきなのです。
全世界での共産主義社会。
想像を絶するほどの平均化された社会。
しかし満たされるのか。
結局そこに行き着いてしまいます。
痛みとは経済的な部分が発端であることが全てではないのです。
その他の部分も補い合える社会こそが私の考える最終段階であり、
本質的な意味での共存共栄なのではないだろうか、と思うわけです。
考え方の一つとしては大東亜共栄圏の考え方、即ち東亜新秩序というのも、
今後の私の思想を確立するためには避けて通れない道であると思います。
私も亜細亜地域の日本国民の一人として、初めは日本、アジア圏を基盤に考えていかなくてはいけないと考えておりまして、その共存なくして世界の共存などあり得るはずもないのです。
経済統合は勿論のこと、新文化の創造、新しい生産方式、そして新しい秩序。
※東亜新秩序の中では国際正義の確立や共同防共も盛り込まれていますが、
私の思想とは反する形にあるので削除いたします。
その中でも私は『新しい文化』と言うものに希望を抱いております。
大東亜共栄圏を一つの国家と見立てたときに、愛国心とは一体どこに見いだせるでしょうか。
好きな風景であったり、同じ国民への誇り、歌であったり舞踊であったり、
今現在では、一つの国家独自のものに見いだしている愛国心を、
新たな秩序のもと、大東亜共栄圏への愛国心へとうまく転換できるでしょうか。
例えば、私達日本人がオリンピックなどの国際競技で、中国人を心から応援することが可能か。
ソニーやトヨタ自動車が世界の優良企業ランキングに入っている事を、同じ日本人として誇りに思うことが出来るように、サムソン電機やヒュンダイ自動車のことも誇りに思えるだろうか。
今現在の永平寺や住吉大社にフィリピン人が座禅を組みに行ったり、毎年初詣に足を運んだりするのか。
そういったことは現段階では難しい事なのではないかなと感じるのです。
とは言え同じ文化に同じ感情を抱くということは、共存をスムーズにするために必要なことであると思います。
抗日デモを起こす人達はみんな日本が嫌い、という様なことですね。
(その中の一部にはお祭り好きも紛れてると言われていますが)
そこで、新たな文化、思想の構築によって新たな愛国心を抱こうと言うことなのです。
大東亜独自の統一した感情を引き起こす文化の共有が、一致団結には欠かせない部分なのです。
世界は今、混沌としています。
新しいことを創造するには困難すぎるくらいに、現状の生活に満足している気になっている人間が増えているのです。
それが自分一人のものだとも気付かずに、
「革命なんて、今の時代には必要ない。あんなのは昔話の産物さ。」
と、革命、変革を過去のものとしてしまっている風潮があるのです。
第三世界では、まだまだ革命を必要としている国や地域があることに気付かず、
そのまま眼を伏せてしまっています。
それを変えるのは、その国の人々ではなく我々なのです。
世界統一国家建設の最終目標を基盤に、私達が変えなくてはならないのです。
アルゼンチン人のチェ・ゲバラがキューバを救ったように、私達が世界の情勢にもっと真剣に向かい合い、共存共栄に取り組む時代がきているのです。
革命は過去の産物ではなく、断続的に疑問を解消していくための手段。
イラクに自衛隊を派遣したことについても、この観点だけを見れば間違ったことではありません。
(日本は所詮アメリカの犬なんだ、とか言わないで!)
混沌と同時に疑問を追求するには恵まれた社会に私は住んでいるとも思います。
最近の日本というのは、左翼的な風潮が強く、自国を批判したり、諸外国の様々な抗日的な発言や行動の様々な見解をテレヴィジョンやインターネット等で情報収集することが可能になっています。
それとともに、様々な思想家達の文献や資料も読むことが可能です。
そう言ったことを禁止する国も数多くある中で、私達の住む日本国は「剥き出し国家」としての実力を今正に発揮している訳なのです。
様々な思想家達の資料というのは、自分の思想を確立するためのいい材料であると思います。
自分の意志と、思想家達の意志を照らし合わせ、独りであっても自問自答、ディベートをすることができるのです。
「この考え方はありだと思うが、この○○の部分は違うだろ」
「当時はこの考え方もアリではあるが、今なら○○にしたほうがいいだろう」
「○○さんと△△さんの思想を併せて、私なら□□の思想を作り上げるな」
と言ったように、自分の満足いく思想を建設するためのいいヒントとなるのです。
しかし度々言いましてくどいようですが、情報操作には十分気を付けてください。
本質を見極めるのも訓練ですよ。
情報操作と言えば、この間、『モーターサイクル・ダイアリーズ』という映画を見ました。
チェ・ゲバラの学生時代、南米を単車で旅したときの実話を元に作られた映画です。
泣きました。
南米の貧困層に対する思い、ハンセン病患者への差別に怒るゲバラの描写は、
「当時のゲバラは本当にこんな具合だったんだろうな〜」なんて。
しかし、残念なことにアメリカ&イギリスの合作映画です。
現在尚もアメリカの敵国キューバ。
そのキューバの英雄をアメリカ人が賞賛するように描けるはずもないわけです。
ゲバラの思想的な部分の本質は一切触れず、最後の1分間にテロップがちょろっと出た程度。
実際、旅行中に対アメリカ意識が芽生えたとは思いませんが、ちょっと小綺麗にまとめすぎではないかな〜なんて思うのですよ。
もっともっと泥臭い感じだろ、ほんとは。
でも「将軍様!万歳!」みたいな映画じゃなくて良かったです。
そんなん誰も見ようとも思わないでしょうし、寧ろ嘘もんになっちゃうからね。
そんなこんなで、情報操作に注意しながら己の意志の確立に今後も邁進する所存です。
よろしくお願いいたします。
おやすみなさい。