笑翡翠プロレタリアート
最近、お腹の底から笑っていますか?
笑う事ってもの凄くいいことですよね。
身体の健康にとっても、メンタル面の健康にとっても。
テレビジョンやマスコミュニケーション等、情報が偏りがちな機関にも
やはり『笑い』という要素が大事になってきます。
『笑い』というか『エンターテイメント』。
最近では毎日のようにテレビジョンで『バラエティ番組』を放送していますよね。
私個人はあまりテレビジョンを見ない方なのですが、
そういった「人を楽しませることを主体にした番組」というのは
存在自体を大事に、今後もあり続けてほしいなぁと勝手に思っています。
バラエティ番組が日常に溢れていると言うことは、
まだまだ日本が平和だと言うことなのでしょうね。
日本で戦争が開戦されたら、バラエティ番組どころではないですからね。
報道特別番組しかないテレビジョンなら、
放送局はNHKさんだけでいい、ってなっちゃいますもんねぇ。
頑張れ、民間放送局。
Stop War
音楽業界のエンターテイメント性には目を見張るものがあります。
驚愕、感心、恍惚。
音楽というのは日常で最も身近な外的接触に伴うエンターテイメントであると思っています。
太古の時代から宴や儀式の時には、音楽や演舞等が用いられていました。
人間と音楽というのは切っても切れない密接な関係にあるのです。
商業音楽、民族音楽、様々な音楽形態がありますが、
どれもこれも素晴らしい。
皆さんも、心を動かされた音楽が何かしらあるのではないでしょうか?
ある人は松浦亜弥の表現力に驚愕し、
ある人は鳥肌実の演説、ロマンポルシェの漢気に心を動かされ、
ある人は Discharge や Dead Kennedys のメッセージに自分を見つめ直す。
感じる内容は様々、十人十色であると思います。
只、全てにおいて共通点がありますよね。
何かしらの感情を生み出すという点です。
感じることは千差万別であり、自由です。
音楽の受信側は、内容を自由に自己解析で解釈することができます。
それについていちいち批判だの「その考えは違う」とか
言ってくるのは、あまり頂けない行動なのではないでしょうか?
「私はこう感じたんだからほっとけ!価値観を強要するな!」
ってなっちゃいますよねぇ。
『音楽を聴く権利ぐらいくれ』By Katoh The Public
常に笑っていられるような社会を目指したい。
そう思い立ち、とりあえず自ら実践、
つまり常にスマイルを心がけてみましたが、
「何ヘラヘラしてんねん」
とか、冷めたこと言う木瓜茄子のせいで敢えなく挫折。
私は人と話す場等で、人を笑わせる、愉しませる事をモットーとしているのですが
皆さんはいかがでしょう?
人が笑ってくれると私は嬉しいですよ。
自分も愉しくなります。
私の昔からの友人の一人に
『罵倒、下ネタが笑いになる』と考えている人間がいます。
もちろん上手く使えば笑いに持って行くことは可能です。
只、半端な能力でそれらを披露すれば、笑わせることが不可能どころか
自分の人間性すらも疑われてしまう。
まさに両刃の剣なわけです。
自分の言ったことで自分が傷つくのは勝手ですが、相手まで傷つけちゃいけないよ。
と、自分にも言い聞かせているのでした。私。
愉しみましょう。笑いましょう。
そうやって笑いを取り合い、
ついでに手も取り合って生きていきましょうよ。
エンターテイメントに国境はありませんよ。
皆、愉しむ権利があり笑う権利がある。
人権としての愉しむ権利を、
皆さんも大事に生活してみてください。
大東亜、極東に潜む漢はまた笑いを求めて彷徨い歩きます。
徒労では無いと己に言い聞かせ、
中産階級の先天性労働者を呪うこともなく、
只、何時か爆裂してやるぞ。
階級闘争に屈することなく、
只、何時か第4インターナショナルの結成と
笑いというヒューマニズムの今以上の確立を目指し、
私は精進する所存であります。
我が咆哮よ、屈する事勿れ。
以後、宜しくお見知りおきを。
微醺男の葛藤
目下の塵に同じは
偏に塵にありて塵に非ず。
義憤にして義憤に非ず。
罵倒を以て儀容とする事勿れ。
皆さんは感情を表に出すことが旨い方ですか?
愉しいときは愉しいと、
悲しいときは悲しいと。
喜怒哀楽の感情を放出していますか?
私は比較的下手なような気がしています。
「何時もニコニコしてるね」
「何考えてるか解らん」
「何も考えてないやろ」
の様な発言が周囲には蔓延しているような思いがあります。
その声を聞く度に己の成長の無さが浮き彫りになったような気がして
寂しさに苛まれます。
勿論自分には感情があります。
その感情を外では知らずの内に押し殺してしまっているのかもしれません。
感情を出すのが怖いから。
自分の感情が浸食されたくないから。
知られたくないから。
全てを無意識にですが実行してしまっているように思います。
臆病であり、保身的であり、秘密主義。
そして寂しんぼうである、と。
厄介極まりない。
何とも蝦蟇禅。
ラインを引いてしまっているんでしょうね。
他人には理解されなくてもいいと。
互いの事、人間関係には常に到底理解できない壁があると。
自然とコントラポジションをとるような形になっていると。
畜生。
自分のことが残念に思えます。
何故こんなにも感情を吐き出せなくなったのか。
環境か。教育か。
それとも倦み疲れてしまったのか。
諦めてはいけないと、ラインは引いちゃいけないと
自分に言い聞かせるのも不可能なのか、と。
自分を卑下したところで始まりませんよね。
淘汰されるには未だ早い。
もうちょっと最前線思考を高めていこう。
またそう自分に言い聞かせて一歩踏み出します。
One Step Beyond です。By Madness
と、自分のことについては自分の都合がいいようにしか考えません。
全日本オポチュニスト協会代表。
今勝手に私が就任します。
今後ともよろしく。
極東最前線の猛者達は
また路頭に迷うかもしれない。
只、私が道標になってあげられるならば
私は喜んでこの命を投げ出す覚悟であります。
それが誰にも知られることではなくとも
雲散霧消と成り得ても
この世界に少しでも貢献できれば
否、できればかなり貢献したい。
ビバ!ビバ!
ジェノサイド
戦争とは『悪』でしょうか『善』でしょうか。
私はその判断ができません。
只そこで何故私は『反戦』の怒りに溢れているか。
何故私はそこまで戦争に対して嫌悪感を抱いているか。
それは子供達です。
戦争が子供達に影響を及ぼしているからなのです。
教育というのは洗脳です。
戦争肯定論を物事の判断がつかない幼少期から脳内に擦り込み、
鬼畜日本兵だのサンバルテルミーの虐殺だのを教育の一環として
歪んだベクトルで教育したらどうなるでしょうか?
「戦争は間違ったことじゃないんだ」
「自分の意見が通らないときは、武力行使して然るべき」
と偏った意識を持ってしまったらどうなるでしょう?
一部、雑誌やテレビなどのマスメディアで(情報操作に注意)
子供達が自動小銃を片手に兵隊と笑顔で写真を撮っていたり
片足が地雷で吹っ飛び、松葉杖をつきながら生活していたり
爆撃にやられた母親の飛び出した腸を泣きながら腹に戻していたり…
そのような光景を頻繁に目の当たりにします。
絶句します。
自分が何もしてあげられなかったことにも勿論、
子供達には何一つ罪はないのです。
何故純真無垢な子供達がこのような目に遭わなくてはいけないのか。
「戦争は正しい」と子供に教育。
しかしその子供達が目の当たりにする惨状は、
とても正しいとは言い難い、何とも理不尽な有様。
「先生が戦争は正しいことだって言ってたから、しょうがないんだよ」と
子供は自分に言い聞かせるのでしょうか?
感情すらも押し殺して。
私は政治的な観点から戦争を反対しているわけではありません。
人間的な感情の一つとして『反戦』を掲げています。
厭なんです。不条理に人が死んでいくのが。
子供達が死んでいくのが。
子供達が戦争を始めてしまう将来があるということが。
悲劇、惨劇を連鎖させてはいけない。
テロについても同じ事が言えます。
己の信じた道としてテロ行為を行うということはどういう事なのでしょうか?
強要を外部に押しつけると言うのがどういう事なのでしょうか?
己の信じる道があるというのは素晴らしいことだと思います。
宗教も素晴らしい。
テロ自体も内容は別として、何かを発起しようという観点から見れば別段悪いことではない。
今の日本や世界があるのは革命があってこそですからね。
しかし武力行使には私は反対です。
爆破、発砲、略奪、破壊行為。
他人に害を及ぼしていい、なんてことは現代社会ではあり得ない。
勿論私にとってもあり得ない。
ナイス害なんて無いですよ。
そこで難しいのが宗教上の教えとして武力行使を推進している場合。
正直どうするのが正しいかなんて解りません。
『善』だと信じてやったことが『悪』であると周りには言われる。
日常にもそういうことありますもんねぇ。
私個人の考えとしては、社会の発展、経過に伴い
宗教もその形態を変えていくべきだと考えています。
変えるというか、もっとフレキシブルにと言うこと。
人間が成長するのに、人間以上の存在である宗教が成長しないのは
悲しいことです。
と、まぁ私個人が勝手に考えてることなんですけどね。
戦争とテロは違いますが、人が死ぬのは同じ事。
外部に対する行為だけじゃなく、内ゲバだっていっしょな事ですよ。
人間個人単位で言えば他人は全て外部ですから。
しかし反戦だと言っているのも自由があってこそですからね。
自由を勝ち取るために戦争した例が過去にも沢山ありますから。
自由の女神も戦争に行っていたんですから。
100%の共存なんてあり得ないのかもしれないですけど、
私は100%共存しようとする姿勢で
この世を変えなくては、と考えています。
戦争やテロが無くなるか蔓延するか。
その判断は、私も含めあなた達の双肩に委ねられています。
みんなで変えていきましょうよ。
さぁ、あなたの番ですよ。
最後に、俺のこと偽善者扱いしてる奴!
お前は偽善でもいいから、一度だけ人に優しくしてみろ。
頼む。
無敵崇拝
嗚呼、時間は有限です。
無限の産物ではありません。
只今、会社にて仕事中。
一寸した「待ち」に入ったので調子に乗ってブログを更新します。
閑散とした職場に独り悶々と仕事をしていると、
毎回思うことが一つ。
今、仕事をしていていいのか。
この時間(深夜から朝にかけて)仕事をしていて、大事なことをやり過ごしてしまってはいないだろうか。
衝撃的な、自分の将来を変えてしまえるような出来事を目の当たりにするチャンスを逃してしまってはいないだろうか。
自分を見失ってはいないだろうか。
可能性を見出そうとすればキリがありませんが、
『この時間、刹那に他のことが出来たのではないだろうか』
が今回の内容です。平たく言うと。
始めにも述べた通り、時間は有限のものなのです。
一人一人持てる時間は決まっています。
その決められた時間の中で、自分を高め、無敵の人間に成りたいとは思いませんか?
私は成りたい。無敵に。
そこで、また一つ疑問が湧きます。
何を持って無敵とし、何を持って無能とするのか。
また、無敵と成ったところで、どうなるのか。
その先目標となるものは何なのか。
その道に案山子はいるのか。
正直無敵って何なのか、私も漠然としか解ってないですよ。
『無敵に成りたい』
みたいなこと他人が言ってたら
「こいつ、頭膿んでるんちゃうか」
とか思うのが関の山だと思います。
無敵とは死ぬこと…あほう。死んでもうたら無敵ちゃうわ。
マリオはスター取ったらクリボーに当たっても死なへんやんけ。
でも、溝落ちたら死ぬねん。マリオ。
ほんまもんとちゃうで。マリオ。
しかし憧れませんか?無敵。
響きですかね。韻と言うのでしょうかね。
A「山田って昨日から無敵らしいぞ」
B「マジで?イカすな〜」
の様な会話が日常にあったら、みんな無敵を目指しますよね。意味もなく。
しかし、日常の無敵って何なのでしょうね。
辞書を引いてみると
『非常に強くて敵対するものがないこと。対抗できるものがないこと。また、そのさま。』
とあります。
日常の敵と言えば…やはり自分でしょうね。
己に打勝ち、己に甘んじることなく、己の道を驀進する。
向上心を持ってこそ無敵とは、何とも美談。
只、無敵になった人間が時間をも制することが可能かと言うとそうではありません。
時間とは唯一無二、天上天下唯我独尊の絶対神なのであります。
個々に少しずつ分け与えられ、一度過ぎたる時間は補うことはできても取り戻すことなど不可能。
この世の無敵の存在とは『時間』なのかも知れませんね。
一人間が成りうる対象ではないのでしょうね。
無敵に憧れを抱き、無敵に成る可く己を邁進させる。
たとえそれが成就することがなくとも。
と、こんなこと言っていますが、私は宗教団体等には加入いたしておりません。
自分では
「宗教は入るものではなく、己で開くものだ」
と思っているので。
宗教は悪いと思っていませんよ。
寧ろ素晴らしいものだと思っております。
何かに縋り付きたくなりますよ。人間だもの。By みつを
何はともあれ時間を大事にしましょう。
後々後悔してたって遅いですよ。
死ぬときに気付いても遅いんですよ。
自分を総括したときに、やれることはやったと心の底から言える自分を目指しましょうよ。
只、井の中の蛙では所詮「村一番の力持ち」止まり。
目指すならば世界一。
もっと視野を広げて。
もっと可能性をのばして。
世界とのフラクタルを打破しましょうよ。
溺惑も結構ですが、人生は一刻千金。怒濤のように過ぎたる日々は倏忽也。
時間は大事。
このBlog書いてる間にも隣のPCは黙々と仕事を処理中。
賢いね。パソコンは。
私も仕事しよ。朝まで。
Starting Over
最近漸く深秋の兆しとなり
めっきり寒くなってきましたね。
いいね。寒いの好きです。
身が引き締まる思いです。
私って愚痴が多いんですよ。
愚痴と言うか文句が多い。
見苦しい。醜態だと自覚しています。
しかし、また愚痴を垂れます。
愚痴を正当化しようとは思わないのですが、
『愚痴が多い=言いたいことが多い=疑問に感じることが多い』
と言えるのではないでしょうか。
解せない話題が多すぎて、愚痴も増えるっちゅうもんです。
愚痴ってても変わらない、なんて解ってます。
でも言いたくなるのは何故でしょう。
まだまだケツの穴がリトルなんでしょうね。私って。
文句垂れることしかまだできてない…。
まだまだ世間を解析してる段階なんです。
目指すところは次のステップ。
解析し解剖する。
解剖し組み立て直す。
最初から強い人間なんているのでしょうか?
でも強い人間て何なんでしょうか?
文句垂れない人間が強い人間?
何も感じないのが強い人間?
そんな波に呑まれてるのが強い人間?
そんなの只の無感情なだけですよ。
冷徹な人間を強いと呼べない。私は。
温かさに裏付けされてない強さなど本当の強さとは言えないんじゃないでしょうか。
愚痴の一つも零しましょうよ。
生活の一片一片に疑問を感じましょうよ。
人間らしくさぁ。
と、家の金魚に愚痴る。私。
言葉にだすことって素晴らしいと思いませんか?
自分がちょっと追い込まれるじゃないですか。
もう後戻りはできない。言っちゃたから。はは。
ちょっとした宣言になりますよね。はは。
自分のメタモルフォーゼにはもってこいですよ。ははは。
私は文句垂れ続けますよ。
宣言し続けますよ。
自分を変えるために。
世界を変えるために。
いつか行動を発起こすために。
ファック・ユー
政府に忠告。
俺を放っておくな。
容易ならぬは己の萌芽、只埒もなく嗤笑と苦悩
されど演者は我道を、我死するまで擱筆はなし
曖昧三昧
皆さんは何か一つでも間違っていないと自信を持って言えることをお持ちですか?
私は残念ながら持ち合わせていません。
全て自信がありません。そう全て。オール。
この世にあるものって、何だかんだで誰かが作ったもののような気がしてなりません。
お勉強なんて特にそう。
あ、先に言っときますけど、私が学生で只ひたすらお勉強が嫌いで、学校なんて教科書なんて、
ましてや先生様の決めた教えに則って自分を走らせるのなんて厭だ。俺は俺の意志で動いてやるさ。
とかいう意識で『お勉強なんて特にそう』って言ったわけではないので悪しからず。
いや、しかしお勉強なんて特にそう。
何で、学校でするお勉強って無駄が多いのでしょうね。
皆さんも一度は感じたことがありますよね。
直線Ln:y=x/nとy軸およびx軸に平行な直線y=m(m>0)で囲まれた領域をDnとする。
Dnの周上の格子点および内部の格子点の数をあわせたものをP(n)とする。
Dnの面積をM(n)とする。
このとき、 lim_{n→∞}M(n)/P(n)は収束するか。
収束しないならばその証明を、 収束するならばその証明と極限値を求めよ。
自信を持って言ってやる。
一生使わん。
いや、お勉強するのが悪いとは言わないのですが、もっと他に体得しないといけないことがあるのではないでしょうか?
私は思うのですが、基本的に今役立ってる学校の授業とは中学までのようです。
そこから上は殆ど自己満足。完全にマスターベーション。
道徳とかをもっと増やしましょうよ。
ちなみに私は小学校の時道徳の科目で通知票に1がついた鬼畜です。
何処の何奴に聞いても、道徳のテストがあった学校なんてウチだけでしたよ。
全くどうかしてる学校でした。完全に洗脳教育。
『道徳が悪い』って説教されるのって…
今なら狂う自信があります。
やっぱり学校教育で道徳の授業増やすのやめてください。
お願いします。文部科学省。
話は逸れましたが何がリアルか。
全ては『つもり』で始まり『つもり』で終わっているような気がしています。
生きてるつもり、自分が此処に居るつもり。
Blog書いてるつもり、一生懸命のつもり。
もしも皆さんの目の前にある現実が、ある時嘘だとなったらどうしますか?
怖いですよね。
今皆さんが見ているパソコンがいきなりなくなるんですよ。
今までが見てたつもりっだったんです。
実はそこにはパソコンはなくて、混沌だけがあるんです。
そんなことが日常茶飯事起こるのです。
もう疑惑しかもてなくなりますよね。
疑い、狂気し、挙げ句の果てには自分が生きてることすら疑問に思う。
なんて事はかなり極端な話ですが、
少なからずそういう事ってあるんじゃないですかね。
自分はー仕事とかーめっちゃーマジでーがんばってるしー誰よりもー本気やしーなんたらかんたら…
とか言ってるところに、自分より忙しく本気でやってる人間とかが現れたら、
自分は今までがんばってるつもりでいたに過ぎなかったんだと痛感しますよね。
皆曖昧なんです。
自分の事すら解ってないのに、他人の事なんて勿論解らない。
ましてや自分が産まれる前の事なんて、教科書読んだだけで理解してるつもり。
それがデマだったら、また自分が儚くも教科書如きを信じてしまったんだと落胆する。
まず疑ってかかりましょうとは言いませんが
すこし疑問を抱いて生きていってはみませんか?
違ったリアルが見えてくるかもしれませんね。
最後に詩を紹介します。
『アタックヘッド』
17秒3
俺のアタックヘッドは
自信も詩人も募集中
一人応募してきたが
すぐに帰っちまった
だって俺たち
どっちが幸せかなんて
とてもじゃないけど
自分じゃ言えない
ⓒDynamite K
パブリック・インボルブメント
『普遍的な社会であるが故に、社会は変動する』
と説いた人がいました。
彼は社会的に権力のある人間でもなければ、裕福な人間でもない。
彼は彼なりに社会を見据え、解体し、自分の境遇を呪いました。
「変わろうとする私を、変わらなければと憂いでいるだけの群衆がそれを許さない。」
変わること(変えること)というのは何故に悪になる。
理想を具現化するための一歩を、何故皆止めるのか。
人間は日々進歩している、とよく耳にします。
変動する量または幅が小さいが故に日々の前進(後退)に気がついていない。
皆さんは社会が、又は自分が変わらなければいけないと感じていますか?
テレビや雑誌などを見ていると、
「変えてほしいねぇ」とか
「期待してるよ。小泉さん。」とか
「変わんないんじゃない?政治家なんて誰がやってもいっしょ。」等と言う民衆をよく目にします。
すごく他力本願だと思いませんか?
「税金払ってんだから、しっかりしてくれなきゃ」って…
アメリカにお金を払い『だから守ってくださいよ』って言ってる日本のスタイルそのものですよね。
国の象徴は民衆一人一人の思考、世論。
社会を変えたければ、まず自分が変わること。
その一人一人の積み重ねが社会を動かし、強い日本へと育て上げていくのですよ。
と言ってはいますが、別段『富国強兵』みたいなスタイルではないですよ。私は。
実際、自分も変わろうと思っていてもどう変えていっていいものか解りませんよねぇ。
なんだか煮え切らずに暗澹としてるわけですし。
だから私はBlogとか書いてみてるわけですが、
「だから何なの?」
とか聞かれると慨嘆しちゃいますね。
ただ書きたくて、自分を再構築するために書いてるんで
とりとめのない話になってしまうんですよ。
あんまし突っ込まないで。突っ込むくらいなら読むな。
と熱くなっても始まりませんね。
怒りの矛先はここにはないですよ。
話は脱線してしまいましたが、自分を変えて社会諸共変えてしまおうというお話。
すごくないですか?
だって自分を変えるだけで社会、ましてや一つの国すらも動かせてしまうんですよ。
社会が自分のモチベーション、アティチュード次第で変えられるんですよ。
うわーすげー。すげー。ウォー。
と少々興奮してしまいました。申し訳ございません。
社会はパッと見、変わっていないようなつもりでも
知らないところで変わっているんですよ。
私は未だ変わっていなくても、他の人間は次々と変わっていく。
自分一人が普遍のものでも、他人はいつでも流動的。
自分一人の世界を作らずに、もっと視野を広げて。
変動してるとか、してないとかのつもりになってるなんてのはナシで。
だから変わっていく人間を目の当たりにしても、そこはお咎めナシで、
ついでに自分も変わっていきましょう。
若しくは自分を客観視して、変わっていっている自分を実感しましょうよ。
首相が靖国神社参拝しようが、韓国の大統領が整形してようが
そういう他人のことはさておいて、まず自分を見てみましょうよ。
見て見ぬふりは見苦しい。
敵前逃亡はいただけないなぁ。敵とはもちろん自分ね。
最後に一句、
『愚民だ』と
民衆笑うも
愚民かな
「民主主義よ永眠なれ!」by Jello Biafra
生活にも『反核』
みなさんこんばんは。
極東最前線の徒労民こと加藤です。
みなさんは日常生活の中で、
『他人に好かれたい』とか
『みんなを楽しませたい』などと思うことはありますか?
私は後者(みんなを楽しませたい)はよく思うことなのですが、
前者(他人に好かれたい)と感じたことはあまりありません。
しかしこの二つの事象を考察すると、かなりニアなところに存在しているように思います。
人を楽しませることは、人に好かれること。
私の中では陰と陽である二つの事柄。
「何でそんなに好かれようとするの?」と人は問います。
違う。別に好かれようと思ってジョークを連発する訳じゃない。
ただ人をたのしませたいのだ。と、私は答えます。
しかし、相手は腑に落ちない表情。疑惑。
矛盾て自分の知らないうちに自分の中に生成されていくものなのですね。
自分の中では、絶対だと思っていたことが
相手にとって絶対とは限りません。
自意識の崩壊は、今もすぐ隣に居るものなのですね。
しかし本当に人に好かれたいわけではないのですが、
その事を一生懸命相手に伝えたところで、特別前進するわけでもないので
早々に諦めてしまいます。
と言うより呆れてしまいます。
「なんて多数派の人間なんだろう」
「システムの一部になっている君の思考が、また私を傷つけているんだよ」と。
そうやって自意識を押し売りされると、人間が嫌いになってしまいそうで怖くなります。
自分の事だけに、ムキになってしまうんでしょうね。
ムキになって、逃げる。
目の前の敵(強要)から逃げる。
それじゃ何も変わらないですよね。
相手の意見は、それとして受け止めておかないとね。
他人にバカにされようが、コケにされようが、クソミソに罵倒されようが
受け止める勇気が必要ですね。私には。
イライラを胸に抱いたまま、生活するのは私にとっては苦痛以外の何物でもありません。
イライラは様々な弊害を生み出します。
世間では、殺人などを犯す人間が
「イライラしてたからやった。」
などと言うことがあります。
それも自意識の強要なのですね。
外部からの自意識の強要に耐えきれず、自分がまた自意識を外部に強要する。
それを受け取った人間がまた外部に自意識を強要したらどうなるでしょうか。
これほどの悪循環が罷り通っていてよいのでしょうか?
自分でストップすることがどれほど社会貢献かをもう一度考えてほしいのです。
受け止めて消化する。
フラストレーションを+のエネルギーとして消化できる機関を自分の中に建設しましょうよ。
そう私に言いたい。
イライラとか、できればそんなんはナシで生活したいのです。
強く望みます。政府に。そして自分に。
でも私は、ほんとうに人に好かれなくてもいいのよ。
と表面上は思っていても、本能レベルでは違うのかもしれませんね。
もうちょっとこの議題については考える時間が必要です。
なんだか結論がでませんわ…
睡眠不足気味で掴み所のない話になってしまいました。
また元気なときに脳味噌フル稼働で書きます。
目の前の驚異から目を逸らすな。
生活にも『反核を』!
それでも空は蒼い
今日は音楽を聴きながら書きます。
極東の夜はまだまだこれからですよ。
最初の曲は The Pogues の『Hell's Ditch』です。
なんて完成されていて、且つ洗練された曲なんだろうとあらためて感動します。
この曲の3分4秒の背景には、幾つもの物語があるように思います。
悲しくも愉しい。優しくも厳しい。
何故か幻想的であり、またリアルでもある。
シェーンはどういう気分でこの曲を歌っているのでしょうか(歌ってる部分は少ないですが)。
楽しいのか悲しいのか。
The Pogues の音楽を聴いてると、
『酒と音楽で世界は救える』と勝手な妄想に浸ることも屡々…
楽しい方がいいに決まってますものねぇ。
辛いことはできれば体験したくない。
しかし、現状はそうもいかない。
辛いことの方が多かったりしますよねぇ。
それをどこかで諦め、妥協して生きてるんだと思います。
人間て妥協の虫なんでしょうね。
妥協のラインは十人十色、個人差はあるでしょうが
結局行き着く先は皆同じなんです。
自分が納得できるかできないか、自分を納得させることができるかできないか。
納得の瞬間が妥協なんです。諦めなんです。
『私はまだラインを引いちゃいない』
と思ってはいますが、
『結局何一つ満了できちゃいない』
と心のどこかで自分を卑下してしまっていたりします。
おっと次の曲は Buena Vista Social Club の『De Camino a La Vereda』ですね。
ハッキリいって何言ってるかは解りませんが、
無条件に踊り出したくなる素敵な曲です。
残念なことにボーカルのIbrahim Ferrerは今年、78歳の年齢で帰ることのない旅に出てしまいました。
しかし Buena Vista Social Club の音楽は後世に残されていくでしょう。
少なくても私はおじいちゃんになっても聴いてるでしょうね。
歌ってるのもおじいちゃんなので、私が歳をとったら聴いたときの感覚が違ってくるかもしれませんね。
そのときがちょっと楽しみです。
当時 Buena Vista Social Club の曲を頻繁に聴いているときにチェ・ゲバラの伝記(みたいなやつ)を読んでいたことを思い出します。
敢えて今、ゲバラについてどうこう書きませんが(長くなるので…)
あぁいう激動の人生に憧れを抱いていました。
もっと追いつめられたい、極限状態に陥った自分はどういった行動をとるのか。
そんなことばかり考えていました。
冷静に適切な行動をとれるか、それとも取り乱すか…
きっと私は後者かな。
いつかキューバにも行ってみたいですね。
ゲバラの歩んだ道のりを辿って南米の方を訪ねてみたいですね。
Buena Vista Social Club の曲を聴きながら。
そんなこんなで次の曲は eastern youth の『雨曝しなら濡れるがいいさ』ですか。
学生時分の頃、自分のテーマ曲にしてましたね。
なんだか複雑な心境です。
*このBlogの『極東最前線』の名前の由来にもなったバンドです。
今の自分は、あのころ描いていた理想の自分にちょっとは近づけているのでしょうか。
日に日に自分の理想というのが変化してしまっていて、あのころ思い描いていた自分とは
かなり懸け離れてきてしまっているのではないかな…と
悲観気味に、ビールを一口体に取り込みました。今。
学生の頃、『反戦』『反核』と叫びながら(その手の)デモ行進に参加したことがあります。
当時は本気の度合いが空回りしていたように思います。
そんなことしていても何も変わりゃしない。
自分でも解っちゃいました。
しかし何もしないということがイヤで、とりあえず参加してみました。
しかし、周りの意識の低さに愕然としたことを今でも覚えています。
もちろん本気の人間もいましたが。
本気の人間なんて一握り。
そのデモ行進に参加している人間の殆どが、
ただの『お祭り好き』でした。
今はそういったデモ行進に参加することはなくなったのですが、
気持ちは今でも『反戦』『反核』『動物愛護』ですよ。
当時よりももっと冷静に判断できるようにはなってきているかな。
と、勝手に思っています。
学生の時の私に言いたい。
「安心しなさい」と。
「気持ちだけはまだ変わらないよ」と。
こうやって音楽を聴いていると、やっぱり様々な感情に出会います。
音楽一つで一喜一憂できるのって、私にとってはすごく大事なんです。
自分の気持ちのバロメータとして。
「まだ自分は大丈夫」
と再確認できます。自己満足ですが。
自分の空は未だ曇り空。
それでも世界は回っているし
それでも世界の空はまだまだ蒼い。
諦めちゃいけないね。
まだまだこれから。
燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや
各々の時間いかがお過ごしでしょうか?
今夜の極東最前線は静寂以外の何物でもありません。
秋の夜長は人の心までも闇に包み込んでいくようです。
別に暗い話をしようって言うわけではないのでご安心を。
「私はほんとうに何一つ解っちゃいないなぁ」
ってみなさんは感じることありますか?
私は常に(無意識に)感じています。
感じているというよりも、この一言で物事を片づけてしまっているように思います。
解せない話題が多すぎると言えばそれまでなのですが、
なにより、難しい話が多すぎるんです。
靖国問題とか暴力革命必然論とか、
人を支配したいとか、抗日だとか…
正直100%内容を理解しているわけではないので
あーだこーだ言える立場ではございません。
友人とディベートをしていても
やっぱりお互いに100%の知識がないので
「え?それってそういう意味なん?知らんかった…」
みたいなことがよくあります。
ただ、そこにも個人的な解釈、及び感情も混入した上で友人が説明してくれている可能性もあるので
かなり危険な状態で情報を得ていることも忘れてはいけませんね。
情報操作って怖いですから。
まぁ実際のところ情報操作されていない人間なんて
この世に1人もいないんじゃないかなぁ、なんて
勝手に思って自分の非を認めない。
はい。それ、私です。
社会性を帯びた話だけに止まらず、
対人間にも同じことが言えますね。
みなさんは他人の誰でもいいのですが、100%その人のことを理解している、
考えていることが全て解るということが可能だと思いますか?
理解している「つもり」、解っている「つもり」になっていることは考えられませんか?
本人は100%解っているつもりでいても、相手からしてみれば
その100%は、まだ5%くらいなのかもしれません。
他人の中に広がる宇宙は、その本人でさえまだ知り得ない可能性で広がっているような気がします。
脳が100%機能していないのと同じです。
なぜ知ろうとするのでしょうね。
なぜ知りたいのでしょうね。
答えは生憎ひとことでは言い表せないですね。
表すとするならば
「知らん」
それが答えです。
私が思うに、100%理解するのは不可能。
ただ、『理解しようとする姿勢』が大事なように思います。
向上心を持って生きていきたいですね。
明日もこちらは晴れです。
全人類が平等に日の光を浴びることを願って。
フレキシブル社会
今日は割と爽快です。
人間て何かしらの目標ができると目が覚めますね。
その目標が自分にとってプラスになるかマイナスになるか。
全くの未知数である目標だとしても、
なんだか胸が高揚しますね。
ハイです。ナチュラルハイ。
そんな一日だったわけです。
何故、社会はずっとリピートしてるんでしょうか。
明確な目標を失ってしまっているのではないでしょうか。
「社会のラインには乗りたくない」
でも
「社会はラインに乗っていないと迷走し続ける」
社会って、世界ってとても不器用なんですね。
私達以上に。
そしてとてもデリケート。純粋。
敷かれたレールには何ら疑いもなく、ひたすら驀進し
先導者が変われば、またそのベクトルに驀進する。
私達の大勢(多数派)が決めるラインは
時に過酷で、時に非情です。
少数派の人間はひたすら耐え、のちに社会を恨みだします。
社会とは大きな人間の流れ。
流動し続ける変動的な風潮は、
曖昧な固定観念を植え付け、その結果として
順応できない人間は、疎外され、新たな少数派を作り出していきます。
社会って恨む対象にはならないのかもしれませんね。
雲を掴むようなもんですからね。
でも私が学生時分には、事あるごとに
「社会が悪い」だの
「政治が悪い」だの
やたら吠えてたなぁ…
ただ吠えてたって何も変わりゃしないって。実行しなきゃ。
社会に不満を抱いて吠えてたんじゃないのでしょうね。
ただ、「吠える」っていうスタイルが好きだったんでしょうね。
今はどうなんでしょう。
社会を恨む?
私達を導く先導者を恨む?
恨みが募って垢となり、洗い流されてリセット。
そして新しい皮膚の上には、また新たな垢が溜まっていく。
何故かリピートしていきますね。社会って。
不満はエネルギーになるときもありますが、栄養にはなりませんからね。
何かを恨んで生きるのってしんどいですからね。
自分の中で恨む気持ちが発生したら、
よく自分の周りをよく見渡してみましょ。観察しましょ。
何か違った感情が産まれるかも。
フレキシブルな人間が織り成す、
フレキシブルな社会を私は提案します。
極東最前線の夜更けです
こんばんは。みなさん初めまして。
極東はもう夜です。
このBlogは、私自身の思想を再確認する為のBlogです。
思想と言っても、何か政治的思想があるわけではありません。
テーマも特別ありません。
日々の生活の中で行き詰まる様々な疑問、壁、混沌を打破して行く為の道筋を立てやすくする為、
言ってること、行っていることに矛盾を生じさせない為、
書くことで再確認をしよう。という、
最高に自分勝手なBlogです。
特別、皆さんからコメントをいただこう、とか
たくさんの人と考えを共有したい、とか
あんまり考えていません。
まさにミスター傍若無人。
突然ですが、皆さんは一生『多感な時期』を押し通す自信がありますか?
日々の生活のひとつひとつを逃さず、自分の中に吸収できていますか?
正直私はできていないような気がしています。
町中で痩せた野良猫を見ても、
その瞬間は何かを感じますが、2分もすればスッカリ忘れています。
全部憶えておくってしんどいですもんねぇ…。
ただ、それでは何の進歩も無いと思ったんです。
「大事なことだけ憶えて(感じて)おけばいい」
そうじゃないんです。
何が大事で、何が戯事か。
世界を救う為には、万物全てに感受性のアンテナを立てておかなくてはいけないような気がしています。
皆さんもあるでしょうが
ニュース等で、世界の戦争や紛争、テロ等の状況が流れる度、
強烈な憤りを感じます。
「何故、自分はこんなところでのうのうと暮らしているのだろう」
「何故、自分は何もできないのか」
自分の腑甲斐無さ、無力さに愕然としてしまいます。
何かすればいいんです。
ただ、何かを発起する勇気もなければ気合いもない。
結局なにもできずに、またのうのうと日々の生活を繰り返す。
そこで、一念発起して世界を救う。
できんと思ってるやろ!
できたらBlogとか書かんわ!
と、ちょっとヒートアップしてきました。
つまり「書いて再確認」なんです。
「反戦」「反核」「動物愛護」etc...
色々書きますよ。
書いて埒があかなくなるまで。
極東はもう夜更けです。
世界に明日の朝がくることを願って。