凱旋
本日 、実家に帰省致します。
また今年も何もできんままの帰省やなぁなんて少々自暴自棄。
帰るときは故郷に錦を飾りたいものですね。
ともかく、混雑しているときに混雑しているところに行くのは、
正直大嫌いなので、電車も高速道路も勘弁して欲しいのですが、
休みが如何せん少ないので、混む時期にしか帰省できず。
墓参りぐらいは行かんとあかんなぁ。
明日は早起きする予定なので、少々寝ませう。
今年の極東最前線は、これにて終了。
総括すべし
師走でごわす。
と、粋なラップで始まる今日の極東最前線。
盛り上がっていますか?
私は盛り上がってますよ。常に。
そんなこんなで師走ですね。
そろそろ巷では忘年会だのカウントダウンだの、騒がしくなってきましたね。
極東最前線でもここらで今年を総括してみようかと思います。
今年はどんな1年だったかしら。
まず、なんと言ってもIRAですね。
今年の夏、IRAは長きにわたる段階的な武装解除の最終形態に突入したと。
そして遂に武装闘争の終結を宣言しましたね。
つまりは『北アイルランド紛争包括和平』と呼ばれる出来事です。
これでちょっとは…なんて甘いのでしょうか。
でもIRAができたのだから、私も段階的にでも少しずつ前進せねば、と
今年は奮い立ちましたよ。鳥肌が立ちましたよ。
IRAの問題を解りにくく、複雑なものとしているのが『宗教』な訳ですが、
この『宗教』と言うのが私達日本国民にはどうにも解せない、
そして弱点でもあったりしますよね。
私達日本人は極端な無神論、つまりは「神様なんて信じない」国民でありながら、
(※全員が、と言うわけではありません。私のことを言っているのです。)
800人以上の神様を出雲の国に有する、誇り高き大和民族であると同時に、
月毎に仏教、キリスト教、神道などを使い分ける、世界一の宗教的無節操な民族でもあります。
マルクス主義の唯物史観に勝るとも劣りません。
したがって、我が国の宗教に関する寛容度は世界一と言っても過言ではなく、
間違っても○○教(なんでもいいのですが新興宗教)のおばはんが、
南本願寺や永平寺にテロを仕掛けたりは、たぶんしません。
それを踏まえて
「人口の5分の3が新教徒であるアルスター地方は北アイルランドとして英国に留まること」
を決めてしまった訳なのです。
1922年(アイルランド自由国が自治領として認められた年)のお話になります。
宗教と武力闘争。
今日まで世界では、この2つの関係は切っても切れないものだとされてきました。
それが今、まさに今年変わった訳ですからね。
世の中の常識、定説なんて人々の努力次第で変わるものなのですよ。
と共に、宗教も素晴らしいものですよ。
私は無宗教と言う名の宗派ですが。
そして栄えある今年の最大のニュースと言えば、
Mー1でブラックマヨネーズが優勝した事ではなく、
レイザーラモンHGがハッスルに参戦した事でもなく、
田上がGHCヘビー級王者のベルトを取った事でもなく、
何と言っても○○○○でしょう。
この○○○○の部分は皆さんが個々に思うことを当て嵌めてみてください。
皆さん個人の最大の感受性の矛先は、やはり己に向いていると思います。
自分を見つめ直すという意味でも、自分自身の最大のニュースというものを
明確に提言してみてください。
結婚したとか自殺未遂したとかの事変が無い限り、意外に難しいものですよ。
私?私ですか?
私なら、そうですねぇ…。
『いい呼吸法が見つかった』
とか、そのくらいですかね。
意外にないものでして…。
あったとしても物凄くリトルな出来事だったりするのです。
世界の動きは、もっと凄まじい勢いで動いていますからね。
将来的にこの○○○○の部分は、
「民族を統合した」や
「世界中の武力グループ(軍隊を含む)の武装解除に成功した」とかの
世界平和に貢献できるようなニュースを報告出来るように、
尚一層の研鑽と努力を惜しまないつもりであります。
応援とかされんでもやるで。
「やめろ」とか言われてもやるで。
『現実逃避の為の努力は必要ない』By Katoh The Effort
今年もよい1年でした。
年末年始とこれからまだまだ忙しくなっていきます。
体力がもつか心配です。
オッケー、オッケー。
と、最後は武藤敬司社長のような締め方でした。
メリー苦しみます
と、言うことで、世間では クリスマスらしいです。
世間はお祭りムード。
木などに様々な色の発光ダイオードを大量に装飾し、福井県の原発に多大な負荷をかけたり、
ケーキやノエルやらの類を人混みを掻き分け買い漁り、
家や洋食屋で伴天連の賛美歌を歌いながら、
鶏族の肉を喰い喰い、親族、若しくは他人に豪華絢爛な物品等を買い与え、
イエス・キリスト様の生誕を祝うようなスタイルを楽しんでいますよね。
隠れ切支丹が日本には大勢いるのだなぁと実感致します。
『クリスマスに仕事してる奴って信じられへんわ』
との声をよく耳にします。
するよ。仕事くらい。
私も実際仕事な訳ですが、そんなにいけないことですか?
もしもクリスマスに世界中の全国民が職場放棄したとします。
政治、鉄道、電力会社、スーパーやコンビニ、警察、消防等々…。
全ての『職』と呼ばれるものがストップするのです。
困りますよね。
君が今見ているインターネットも見られず、
テレビジョンやレイディオも電力会社や放送局が休んでいるので楽しむことができない。
勿論ケーキや御馳走も、お店が休んでいるので買えません。
諸君、困るんだろ?いひひ。
と言うことで、仕事している人間にもっと敬意を払うことにします。
クリスマスを祝わない風習の人もいるのですよ。
そんなことを言っていますが、クリスマスを祝うなと言っているわけではないのです。
世間の方々、特に彼氏彼女、配偶者等がいない方に比較的多く見受けられるのですが、
『キリスト教徒でもないのにクリスマス祝うな』
とか言っちゃいますよね。
かく言う私も昔はそんなことを言いながら日本人の無宗教さを呪い、
世間様のアベックを糞味噌に罵倒、と同時に
『君たちがにゃんにゃんする為にクリスマスがあるんじゃないよ』
と気付かせてあげたいのですが、そんな心も内に秘めておりました。
そのようなことばかり言って、また世間一般から疎外されていくのは悲しいことですよね。
なので、ちょっと視点を変えてみることにしてみます。
日本人はクリスマスを祝わなかったら、何を祝うか。
私は誕生日を最も祝いたい日と認定しています。
親の愛情をもってこの世に生を受けて、最初にもらったID番号。
人々は誕生日の日にちの数字を、ことあるごとに使用しますよね。
そんな番号を大事にしたいと思いませんか?
日本のクリスマスというのは、どうも商業主義に走りすぎていますよね。
クリスマスやバレンタインという日に最も喜ぶのは商業を営む人間ですものね。
バレンタインにチョコレートを上げる風習を作ったのは日本の菓子メーカーなのですから。
本質を見極めましょうよ。
本当の目的意識をもって生活しましょうよ。
皆さんはクリスマスについて間違った情報をメディア等から得ていませんか?
念の為にキリシタンの方から伺った情報を掲載します。
①X'mas とアポストロフィを入れるのは間違いで、
Xmas もしくは X-mas と書くのが正しい。
②なぜ「イブ」から祝うのか、といえば、
初期キリスト教では一日を前日の日没から数えていたので「イブ」が珍重された。
③サンタクロースの起源は、
恐ろしい袋を持った人さらいと善行の老人との奇妙な結合である。
④プレゼントは『子供に』上げるのが正しい姿(子供に、と言うのがポイント)。
⑤サンタが赤色の服を着るようになったのは、
コカ・コーラボトラーズ社のコマーシャルが普及した為。
と、いろいろありますね。
実際は、クリスマスとは日本ではお祭りという意味合いより、
騒ぐためのイベント、という意味合いが強そうですね。
楽しんだ者が勝ちなのでしょうね。
それもよしとします。
頭の中のコバルト爆弾
常に己の怒りの矛先は
己に向いておりました。
鬱屈し、また自分自身に怒号を浴びせ、
立ち直れ
立ち上がれ
屈するな、と
悲壮と共に謳われるは孤独と不安、そして空谷の跫音。
虚空を彷徨するは煢然の須菩提、即ち私。
孤独の深淵に沈吟する事となるやもしれぬ生き様に、
只々眼を塞ぎ、耳を塞ぐ。
此の先、往く当てはなくとも。
屍を拾う者となりても。
寂寞とした此の生活の一片一片に、私という存在があります。
落ちぶれたものです。
孤独を苛みつつも、己の栄養としてそれを蓄えていたりもします。
孤独は己を見つめ直す起爆剤として、皆の心にも在るものなのです。
ところで皆さんは孤独と宴安、どちらのほうが好きですか?
私は孤独、つまりは一人になることについて、少なからず寂しさを感じます。
物理的に一人になると言うよりは、精神的に一人になるということに
途轍もない悲壮感を覚えるのです。
つまりは疎外感とでも言いましょうか。
自分だけが違う人間では勿論ないですよね。
皆、自分と同じ人間なのだと思います。
身体の構造も同じ、
思想の偏りも、結局は同じ所に向かっているのではないかな〜なんて。
人間として(という言い方は余り好きではないですが)考えることは同じかな、と。
そこで、私だけ思想が違う、極端、破滅的、自虐的というような判断を受けることが
日常生活に没頭している際に屡々あるのです。
さてさてどうしたものでしょう。
私自身、言語について何不自由なく生活していたのですが、
突然、「いかれた頭の豚野郎。ケツの穴にキスしな。」や、
「あんたの考えてることは、よう解らんわ。土民め。」との発言を頂いたりします。
(そう聞こえるのは私の被害妄想だったりするのかもしれません)
驚きます。
そんなに不可解なこと言ったっけかな?
私のモットーとして
『話すときは解りやすく、書くときは素直に』
を心がけているのですが、空回りしているのでしょうか?
解ってもらえない。
プレゼンテーション能力の欠如。
と共に在るのは、他人に疑惑をもたせてしまう私の生活態度。
発言は、態度によってその信憑性を左右させます。
善の発言をした者が、日頃、日常で好青年と呼ばれる者ならば
その発言は善を尽くした、誠の発言と成りうるのでしょうが、
悪人、下手人の類が発した発言で在ったとするならば、
その善の発言は、只の偽善、伊達、寛闊者と称され、
誰にも信じてはもらえないでしょう。
それを信頼というのです。
つまりは私の言いたいことが伝わらない、又は真実味がないとジャッジされるのは、
私の生活態度にあるのです。
書くことには偽り無く、只ひたすら真っ直ぐに。
話すときはポップでキャッチーに、時に冗談も交えて。
それがあかんかったんか。
あまりにもギャップがあるのやもしれません。
故に信憑性という面で障害があるのかと。
実際、どちらの自分も本当の自分であることには変わりは無いのですよ。
皆さんにもそういったことが少なからずあるのではないでしょうか。
鏡に映る右手が、左手に見える現象と似ていますよね。
二面性とは思想と本能の狭間に浮沈するものなのです。
真実の自然体、つまりはニュートラルな人間を目指して驀進しているのですが、
なかなかそう言うわけにもいきませんよね。
社会からは疎外、迫害され、忌み嫌われ、日常生活が困難になりますから。
ビビっちゃってんのね。
反逆要素を社会は作り出したくないでしょうしね。
私はニュートラルに生活する事を恐れ、
社会はニュートラルな人間を恐れています。
社会は偽善者が大好きですから。
私は生活をもう一度見つめ直してみます。
私の躍進を止める要素は、常に私の中にあります。
驀進か玉砕か。
私が決めるのです。
『賞賛はいらん、同意をくれ』By Katoh The Sweet
あんたが邪魔しようとするならば、
遠慮無く轢き殺しますよ。
悲しき禊ぎ
今日は比較的暖かいような気がします。
なんて、気候や天気、季節の話何ぞをしだしたら、
私も歳をとったのだな、なんて感じてしまいます。
それと共に、やたらとタクシーの運ちゃんとも話が盛り上がってしまいます。
今日もある出来事がきっかけでタクシーを活用することと相なったのですが、
60過ぎの翁と「宇宙と氷河期」について懇々と話し込み、
揚げ句、「大雪が降ったくらいで喚くな」と
最近のマスコミュニケーションに対してあからさまに敵意を剥き出しにし、
代金を少々おまけしてもらっちゃいました。
ところで、皆さんは「あんた変やで」なんて事を言われること、ございますか?
私は何故か幼い頃、物覚えがつくかつかないか、首が据わるか据わらないかの頃から、
散々、まるで念仏でも聞くかのように言われ続けてきました。
何を以て「変」と言われるのでしょうか?
今日はそんなお話。
私はこれまで「変だ」との忠告(又は自己確認)の一言一句を
全て聞き流してきました。
気にも留めず、反省、改心すらすることもなく、今日まで生きてきました。
当たり前になりすぎてしまっていたように思います。
私が変なのは定説。
私が変なのは、空に太陽があるのと同じ。
当たり前になりすぎて、皆の心に受け入れてもらっていないことにすら気付かない。
自覚が無いのがそもそもの悪の根元であると考えます。
と言うことで自覚してみます。
私が変だって?
何で?何でよ?
言われてみれば…。
「あいのり」っていうテレビジョンの番組ありますよね。
あのテの番組が私、とびっきり苦手でして…。
けっこう長者番組のようですが、私、通算で10分ほどしか見たことがありません。
あの番組のことを雑誌などで見ることが屡々ありますが、
悲しくなります。
「こいつら紛争地区までわざわざ出向いて、愛だ恋だの現しか抜かせんのか。」
「何がラブワゴンじゃ。俺には霊柩車に見えるわ。」
「こいつ実家の近所の○○屋の娘やないか。」
「若人よ。もっとやることがあるだろう?」
などと、儚きかな罵倒をしてしまいます。
今日もテレビジョンのスウィッチをオンした瞬間、その番組が放送していたので、
慌てて、奇声をを発しながらチャンネルを回し、
「伊東家の食卓」を目的もなく見ていました。
「地球を救う裏技」みたいなのもやってください。
変すか?
そうでもないっすよね?
私は私自身、皆と何一つ違わない。
そう、今でも思っています。
ちょっとした発言。
ちょっとした行動。
ちょっとした思想。
どれも皆さんと酷似しているはずですよ。
ただ、ちょっと極端なだけではないでしょうか(そこは自覚済)?
それだけで私を『異物』として認定するには少々気が早過ぎやしませんか?
『犬も朋輩鷹も朋輩』なんていう言葉が昔からありますよね。
鷹狩りに於いて、犬と鷹では主の扱い方には差があるが、
主に仕える側としては同じ目的をもった同志であると。
役割や地位が違っていても、同じ主人に仕えれば同僚であることに変わりはないよ、と。
私たち人間は「世界がここにあるのだ」という証明をするために
この世に生を受けているのではないか、
てなことを時々考えたりします。
この世になにも存在しなかったら、誰がこの世に意味をもたせるのでしょうか?
我々は動物であり、草木であり、原子であります。
皆、同じ目的の為に在るのです。
『存在の為には理由が必要だ』By Katoh The Assessment
その目的をもった同じ人間に、
「私はまともだが、あんたはキ○ガイ」と誰が言えましょう。
皆、アース・コンシャスを考えていますよね。きっと。
そう信じたい。
考えてますますよね。ね。ね。
きっと皆さんにも解るときが必ずくる筈です。
私は間違っていない。
歴史が未だ私に着いてきていないのだ。
現代のシシュフォスは、やはり未だ苦行の真っ只中。
世界圏パトリオティズム
『血は水よりも濃い』
何ていうことを言っていた映画をふと思い出します。
つまりは血縁関係という関係は、環境、境遇の中で出会った関係よりも深く、
途絶えたと思っていた間柄でも、実は深いところで絆というものが根付いている、
そういったことをこの言葉は言いたいのではないでしょうか。
愛国心というのにも似たような事が言えるように思います。
愛国心と一口に言いましても、国粋主義、郷愁等と意味合いは幅広く且つ不明確なものですよね。
政府側の期待する「愛国心」は「忠誠心」、反政府側の訴える「愛国心」は「愛郷心」と
同じ愛国心を謳っていても、根底には全く相反する思想が在ります。
我々日本国においてはその昔、
愛国心を軍事主義に利用した、という歴史があります。
「お国のために」という言葉、洗脳じみたその言葉。
愛国心自体はそもそも誰にでも少なからず存在している感情なのですが、
それを逆手に取り、大日本帝国への忠誠を図るという陰謀。
国のために死するは本望。
ま、解りますよ。言いたいことは。
実際、自分の国を守るためには、自分の国の人間が立ち上がるべきなのですが、
立ち上がらなかったからと言って「非国民」呼ばわりですか。
先日のニュースで、
授業中に「臨時召集令状」を2年生6クラスの全生徒218人に配った上、
裏面で戦争に行くか行かないかを問い、
「いかない」と答えた生徒に「非国民」などと書いて返却していた。
というニュースが在りました。
PTAでは大問題になっているらしいです。
私個人としては、やり方は間違っていないのではないのかしらん?なんて思っています。
当時は本当に「非国民」と呼ばれていたのですから。
当時の戦争不参加者はもっと非道い扱いを受けていたのですから。
近所の人々からは投石され、罵られ、親からすらも罵倒される。
悲惨です。
その授業で言いたかったことは、当時の人間はそうやって言われてたのよ、という
軽いノリだったのではないかなと。
決して、「非国民」と呼ばれた生徒達が「戦争へ行かなくてはいけないのだ」という
感情にさせるために授業を行った訳ではないと思います。
近年、日本では愛国心を除外する教育が成されてきました。
教育現場では公的なものとして日の丸掲揚・君が代斉唱を行うことが無くなってきています。
敗戦後の日本では、盲目的な愛国教育が日本を戦争へと至らせたという認識が強くなっていたためです。
その結果、日本人の国家に対する忠誠心は希薄となりましたが、
代償として、伝統や文化に対する愛着、誇りというものも薄れていったと言われています。
そういった議論は右派、左派の人たちにお任せします。
私は私の考えを以て愛国心という感情を育み、そして打破、爆砕します。
そんな教育が在る中、ちょっと神経が過敏になりすぎていませんか?PTA。
確かに現状、先生と呼ばれる職業は聖職ではなくなりつつあります。
いろんな問題を起こす『先生』が増えてきているのも確かです。
殺人、盗撮、ロリコン等々。
『先生』が起こす事件にはこれらの言葉がオプションとしてついてきますね。
そういう人も居ます。中には。
今にPTAはこういうでしょう。
先生を隔離して、別部屋からの中継で授業してください。
そしてその中継を我々保護者の家にも放送してください。
不適切な言動のあった教師には社会的制裁を加えてください。
いきすぎ〜。わ〜い。
『あんたらの神経の方が、よっぽど心配だ』By Katoh The Standerd
話は少々逸れましたが、愛国心。
オリンピックなどで自分の国を応援しますよね。
あれも愛国心な訳です。
知り合いでもない人間を応援する。出身国が一緒と言うだけで。
これで十分な気もします。愛国心て。
師走ということで、皆さん忙しいことと存じます。
私も忙しさのあまり、Blogの更新頻度が下がってきてしまっていることを
ここにお詫びします。
スモーキング・クリーン
手足の縺れ、断舌の孤高たるが故の過ち。
煙草でも吸おうかな、否、吸うまいかな。
否、ここで吸わねば、この瞬間の怒りを回避できないのではないのか。
ここで、この刹那に吸えないようなら、私は一生煙草が吸えぬ。
ここで吸えなければ私は駄目だ。
一生うだつが上がらぬまま、終いにはオーバードーズなんぞでくたっばってしまうのだ。
そうだ。決めた。私は今、煙草を吸う。
躊躇などいらぬのだ。
戦場では一瞬の迷いが己を死へと追いやるのだ。
吸うぞ。決めた。おっしゃー。煙草。
と意気込み、且つ己を窮地に立たせ、煙草を吸う決意を表明したにもかかわらず、
煙草の箱が空箱だったので又怒り狂いそうになりました。
暫く悶々と煙草を吸うイメージを膨らませながら、
ひたすらパーソナルコンピューターに向かっていたのですが、
我慢の限界、悟る一歩手前まで来てしまっているので、
コンビニエンスに行って参ります。否、行かねばならぬのです。
私は現状の『煙草がない』という状況を『優しさがない』という状況に転換して考えてみることにしました。
誰にも優しくされず、勿論政府や、非政治団体、ボランティア団体からすらも優しくされない状況をイメージしてみます。
嗚呼。私だけ税金が高い。
嗚呼。私が募金しようとしたら拒否された。
嗚呼。国勢調査が私の所にだけこない。
嗚呼。人体実験の被験者になれとDMが腐るほど届く。
嗚呼。キャッチセールスが私の前で列を作っている。
嗚呼。『貴方の人権を剥奪いたしました』という旨の封書が政府機関から届いた。
いかん。やれん。
辛い。
手遅れになる前に早く煙草を購入せねば。
私という人間が、人間であり続けるためには煙草を吸わねばならぬのだ。
煙草煙草煙草煙草。
かかる生活に終止符を打つためには、何はともあれきっかけが必要なのだ。
煙草一つがそのきっかけになるならば、健康被害など二の次。
やれ肺癌になるだの、やれ脳細胞が死ぬだの、もはや言っていられる場合ではない。
私は健康よりも、この怠慢、怠惰極まりない生活態度を悔い改める段階に突入しているのだ。
閃きと発想。研鑽と努力。
私に欠落している要素を補うためには、煙草を一服やることが必要不可欠なのだ。
行ってきます。
…
行ってきました。
道中様々な困難が立ちはだかっておりました。
極寒の寒さと、狂化しそうな程の静寂。
通り魔、追い剥ぎ、盗賊、ゲリラなどの類から身の安全を守るために、
低い体勢をとってにアスファルトの上を闊歩しておったのですが、
そこは敵も強者。
百戦錬磨で群雄割拠。
若いおなごをも戦場に送り込んでくるという暴挙ともとれる行動にでた。
若いおなごは顔面を黒く塗り迷彩しておるよう。
年の頃は16、7。ひめゆり部隊と思われる。
敵は自転車という文明開化の産物に二人で跨り、私と対面するように走行、しかも無灯。
夜間の戦闘に手慣れた強敵と判断した私は、
自分が明るい色のダウンジャケットを着ていることに恐怖、後悔し、
それを脱ぎ裏返して着ることを閃き、実践した。
女兵は、私に気付くこともなく、
『なにそれ。マジうけるんだけど〜。』
と、兵同士の何気ない会話に夢中でありました。
今思えば、イントネーションが少々不自然であるところから推測するに、
南蛮人、若しくは伴天連の国の兵だったのではないだろうか。
ついに我が国も世界の侵攻を許してしまったのであろうか。
そのような報道は、未だ表沙汰になっていないだけで、
終ぞ第3次世界大戦の火蓋が切って落とされようとしているのか。
聞いていないぞ。そんなこと。
私は戦き、急いで目当ての煙草を購入し、走って帰りました。
そして、そのような情報が流出していないかインターネットを徘徊し、
情報を得ようとするも、情報が著しく不足している。
政府が絡んでいることは、火を見るよりも明らか。
私は気付かされたのだ。
私に「これから始まるこの戦いを止めてくれ」というメッセージを発信している人間が何処かにいるのだ。
やらねばならない。
やられる前にやらねばならぬのだ。
そして私は踊りました。
くねくねと、平和の踊りを。
では一服致しますので、少々お待ちください。
…
やっと煙草も吸えました。
一服するのにも努力が必要なのです。
加藤は努力を覚えた。
ただ今、レベル3。
アウシュビッツで囁いて
その昔、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)は
精神病やアルコール依存症患者を含む遺伝的な欠陥を持っていると見なされた
40万人以上の個人を強制的に処分しました。
そういう経緯もあり、お酒は控えていこうかなと考えております。
何時ゲシュタポが迎えにくるかハラハラしながら生活するのは疲れてしまいますよね。
迂闊にもアルコール依存症と成ってしまった場合、私は如何にしてゲシュタポやSSを撒くか。
逃げられるのでしょうか?
ゆくゆくは捕まり、
「貴様、色白だな。ユダヤの残党か。いやその眼はシンティ・ロマ人だな。強制収容所にぶち込んでやる。」
とホロコーストの名の下に粛清、虐殺されてしまうのでしょうか。
皆さんは『マウス』という漫画をお読みになったことがございますでしょうか?
少々前の話になりますが、92年に発売されたこの本は、
ヒトラー時代のヨーロッパを生きのびたユダヤ人である父の体験を、
その息子が漫画で解りやすく描いている作品です。
その作品の中では、ユダヤ人はネズミ、ドイツ人はネコ、ポーランド人はブタ、
つまりは全て動物で描写しており、漫画という空想、非現実的な描写と
ナチスという当時の紛れもない、悲惨な真実そのものとのバランスが
いい塩梅な漫画です。
内容はというと上でも述べたとおり、作者の父親の実体験。
アウシュビッツでの過酷な労働、惨劇。
死の恐怖に怯え、それでも生きていこうとする父。
極限状態の中で彼らを支え続けた者は…
の様なお話です。
一度機会があれば是非読んでみてください。
Arbeit Macht Frei(労働は自由への道)
アウシュビッツ(及びビルケナウ)収容所での大量虐殺は皆さんもご存じかと思います。
これらの収容所は絶滅収容所と呼ばれ、毎日多くのユダヤ人が虐殺されました。
殺された人々の灰は肥料として使われ、時には池や川に投げ捨てられました。
金歯は金の延べ棒にされ、ドイツ中央衛生局へ運ばれて行きました。
ソ連軍はアウシュヴィッツ収容所の開放時、倉庫で袋詰めにされていた大量(約7トン)の髪の毛を発見しました。
これも毒ガス(チクロンB)によって虐殺された人々のものです。
その髪の毛は収容所管理局がドイツ本国にあった工場へ売買される予定でした。
専門家による検査により、髪の毛の中のチクロン化合物に毒性をもたらすシアンが発見されました。
そしてその髪の毛を使って、ドイツの会社はマットレスと布地などを作っていましたが、それらも収容所の人間に配給されるものなのでした。
胸が辛くなります。
何故彼らは殺害されなくてはならなかったのでしょうか。
19世紀後半になると、ユダヤ人の同化と地位向上によってひき起こされた
いわゆる「ユダヤ人問題」の根本的解決を訴える論調が盛んに取りざたされていました。
(これらの議論はナチスに限定したことではありません)
社会ダーウィニズムに基づく疑似科学的な人種論。
それにより組織的なユダヤ人迫害への理論的な基礎が置かれ、
ヨーロッパ以外の国外にユダヤ人を根絶する計画が立てられていったのです。
はは〜ん。わかった。
つまりは『気に入らない』んだな?あ?そだろ?ん?どうなんや?
自分たちより優秀なユダヤ人が気に入らなかったんだろ?
てな事を前は考えていたのですが、実際のところはどうなんでしょうね。
まだまだ私には解らないのです。
アドルフ・ヒトラーにも人間としての寂しさがあり、虚しさもあったことでしょう。
彼が何を思い、悩み、憂い、ショアーを行ったのか。
『偉業の在るところに虐殺は在る』
とその昔、加藤という若い青年が言っていたのを思いだします。
アドルフ・ヒトラーにもナポレオン・ボナパルトにも虐殺と搾取と言う言葉が付きまとってきますよね。
多くの命が非情にも落とされ、また搾取と虐殺。
その繰り返し。
人命を無尽蔵と考える彼等。
我々の中の一人ではないのだよ。彼は。
彼は太陽の子だよ。使徒なのだよ。
と、当時の親御さんは子供達に教えていたのでしょうか?
当時の風潮として間違ったことではなかったのでしょうが、
私が当時親の立場であると考えたとき、果たして子供達にうまく伝えることが出来るでしょうかね。
不安です。子供を守るために、長いものには巻かれておいた方がいいのよ、と伝えるべきか、
貴奴等のやっていることは只の殺人行為だ。あんなもの間違っているのだと声高らかに伝えるべきか。
どこでゲシュタポが見ているか聞いているか解らない当時、
そんなことを堂々と声に出そうものなら、次の日の朝には家の前でSSが待っていることでしょう。
さあ、どうする。
挫折、憤り、不安、抑圧。
圧政とは、安定を求める者にとっては優秀に機能しているように見えるが、
自由を求める者にとっては、ストレスでしかない。
人々の感情というのは何かしらに影響され流れていってしまうもので、
私の感情も常に貰い泣きの日々。
私は虐殺を認めることが出来ません。
自分の欲望を達成するためのものであるなら尚更認めることは出来ません。
惨劇を崇拝しますか?
戦争を望んでいますか?
独裁を指示しますか?
未だ貴方は優劣をつけますか?
『嘘と臆病、愚かさに対する四年半』By Adolf Hitler
頭痛が非道くなってきたので寝ようかな。
風邪でもひいたかな。
寒い寒い。実家は雪でも降ってるのかしら。
司る者
私、土地を少々所有しておりまして、はい。
地主でおま。うくく。
土地を所有していると何かと面倒がかかるもんで、
家を建てるとき、駐車場を作って賃料をとるとき、売却するとき、
くらいでしか、地主としての本領を発揮する事はそうそうないものです。
かく言う私も地主ながらも何ら手を加えていない土地という事もあり、
ちくとも儲け等とは無縁の輩でございます。
なので私の事を、
「成金主義の産んだ愚僧」や「銭ゲバ」のような表現で罵倒、中傷する行為の全てが
勘違い、若しくは夢見心地な訳です。
お金無いよ。貧乏人よ。乞食よ。私。
将来、ゆくゆくはその土地に小さな家を建てて、
ピアノと暖炉でゆっくりと。
そして集会場、若しくは講演会場、文化会館のようなものも建てられればな、
などと考えております。
そして私の思想、願望などを声高らかに皆に伝えられればな、と。
え〜。ピポーフヤー。あ〜あ〜。
私の声が聞こえますか?皆さん。
私の心の声が聞こえていますか?皆の衆。
見ないでください。
私はこれより皆さんをおろします。え〜。
何を何処でトチ狂って、この集会にお越しになったのかは存じ上げませんが、私は皆さんの敵で、今こうして皆さんの目の前に現れたのも、皆様のその日本刀で私を切って貰うためなのでございます。
成敗してください。斬れ。
私にはあなた達が何を考えているか何ぞちくとも解らんのであります。
だから斬りなさい。斬り捨て給へ。
私の血で全てを洗い流しなさい。
私の血で全てを悟りなさい。
苦しみ、重苦と成りうる事もございましょうが、洗礼として全てを受け入れなさい。え〜、あああ。
全てを受け入れなさい。
全てを受け入れなさい。
全てを受け入れなさい。ががが。
そしてあなた達は又、働きに出なさい。
職を全うする事を秩序として、己の均衡、安泰を保つために、
日々、職に勤しみなさい。
見える筈です。あなた達にも私の見たビジョンの有りの儘が。
そして嘆くのです。とことんまで堕ちるのです。朽ちるのです。
己を窮地に追いやるのです。何も考えてはいけません。
その日本刀を片手に、嗚咽を漏らしながら、
何時来るやもしれぬ終末に恐怖し、生を受けた事を受け入れる事が出来なくなるやもしれませぬが、
受け入れるのです。ききー。
空を見るのです。星を見るのです。
その星に住む未だ見ぬ我々とは違う人類を想い、考えるのです。
その星に住む人類が、もしも我々と全く同じならば、と。
私たちは思い憂うのです。
なぜ、そんな小さな争いごとばかり続けるのだ、と。
なぜ、そんな小さな星で殺し合いなどしているのだ、と。
実際、遠くの星の事は私にも皆さんにも知る由も無いところではありますが、
皆さんが今住んでいる星の事は、身近なのでよく分かりますよね。
見てください。あなた達の周りを。
何か感じますか?
何も感じませんか?
何も感じないならば私を斬りなさい。刻みなさい。
しかしながら、これだけは覚えておいてください。
貴方が日本刀で切り刻んだ男のことを。
貴方のその手で何が行われたかを。
貴方のその目に何が映ったかを。
殺戮ですか?虐殺ですか?
神剣に集る蠅を薙ぎ払っただけですか?
皆さんの星は足下です。
見てください。ぴやー。
見てください。
ぴぴぴ。時間です。
の様に、偉そうな事で皆さんを罵倒しますので、
皆さんも私を散々罵倒してください。
どちらかがキレるまでこの集会という名の試練は続きます。
そんなこんなで、私の持ってる土地。
つまりは火星についてのお話でした。
ええ、火星の土地を1エーカー(約4,047平方メートル)程。
地上げ屋風情の若い衆に警告
『欲しいなら3兆火星ドル持ってこい』
Let's Submerge
フランスで顔面移植の手術を受けた女性が話題になっています。
鼻と口を成す三角形の部分が移植されたとありますが、
顔と言うアイデンティティーの象徴の部分だけに、問題になっているようですね。
脳死患者からの移植、顔は似ることは無いということなのですが、
実際はどうなのでしょうね。
鼻と口だけ一緒でも似ることはないのでしょうかね。
スティーブン・タイラーの口を移植したら嫌でも似るでしょうけど。
顔面移植は自分のアイデンティティーの消失にほかならない。
フランスでは現在、他人の、
それも死者のアイデンティティーを受け入れる準備はまだできていない。
と、フランスの火傷協会は否定的。
脳死は受け入れることが出来ても、移植は受け入れられないと。
アイデンティティーてのは顔だけに囚われず、いち人間の心身ともに全身にあるものではないでしょうか?
心臓が強い、肝臓が弱い、日に焼けず肌の色が白い、髪がサラサラ、
手の指紋、走るのが速い、足のサイズが16文、小橋健太のチョップは凄い。
そういったものもアイデンティティーですよね。
では、其れらを移植したら問題になるかというと、ならないでしょうね。
其れが問題になるようなら整形手術もとっくに問題になってるでしょう。
ですよね?韓国の大統領。
私は問題ないと思っています。
否、寧ろどっちでもいいんではないかな?と。
そこで、自分のアイデンティティーとは何かな?なんて事を考えます。
自分という存在そのものが既にアイデンティティーと成るわけなのですが、
自分ではなかなか気付かないものですよね。
明確に自分のアイデンティティーを公言できる人というのは、
相当自分自身に自信がある人なのでしょうね。羨ましいです。
そう成れたらいいですよね。
音楽でもかけましょ。
曲は勿論 X-Ray Spex の『Identity』。
アルバム名、Germfree Adolescents。邦題が「X光線と発泡スチロール」。何?この邦題。
そんで喧しい。五月蠅い。金切り声が。でもイカす。
皆さんのいいところは直ぐ気付くのですけどね。
自分の事だとなかなかね。
悪いところばかりで。
それもアイデンティティーですけど。
結局は型に嵌まってしまったりしてしまうのが人間であり、
大衆に流されてしまう、社会に個性を潰されるのが世の常なのです。
現在の学校教育では整然と「型に嵌まる」ことの大事さを謳っています。
「何でもかんでもみんなそろってお遊戯しましょ」
「この文学はこういった解釈をします」のような。
画一化した個性。それはもう既に個性ではない。
奇骨な人間は迫害され、「何故みんなの様にできないの?」。
協調性というのは社会を形成する上では大事な事であるとは思います。
組織の中では妥協、というか譲り合う精神というのは必要なのです。
その中で、如何にアイデンティティーを確立させるか。
範囲、限度が決められた中でのアイデンティティーの建設。
確かに難しいですよね。
小さい頃は私もよく叱責されました。
運動会のリレーでバトンを受け取った瞬間に突然トラックを逆走したり、
ランドセルをペッタンコ(真っ平ら)にしたり(勿論中にはノート2冊くらいしか入らない)、
修学旅行中に山の中に逃げたり、
教科書を全てロウでコーティングしたり、
平成のミスターやりたい放題。当時昭和。
柳は緑、花は紅。
花は桜木、男は錦。
個性を大事に。更には協調性も大事に。そして更には許し合う心も大事に。
そう自分に言い聞かせるのでした。
日本国最高の人たちに物申す。
『あんたらは最高で最低だ』By Katoh The Republic
ここで詩を紹介します。
『虫』
文句言うなら
後にしろ
俺の死んだ後に
ⓒK.Katoh(2000)
決して私は自分が捻くれてる訳ではないと思っていますが、
皆さんは私の事をどう思っているのでしょうね。
迫害したい奴はしろ。
勝手にしてくれ。
董狐の筆キャンペーン
苛立ちと腹立たしさ、皆さんはどちらが多いですか?
似たような感情なのですが、少々ベクトルが違いますよね。
苛立たしさ、簡単に言えばイライラすると言う事なのですが、
つまりは自分と外部との温度差があるが故に、必然的に其処に生まれる疎外感。
価値観の相違による自尊心という名の我相。主観的観念論。
そして其れを外部に放出する事が何らかの理由により不可能とされた成れの果て。
即ち、苛立ち。と成るわけです。
没却できずに内包してしまう訳なのです。
カチンときた現象に対して、自分にも少なからず非がある時や、
ヴィジョンの偏った人間などを目の当たりにし、ウンザリした時、
社会的に没した狂人(つまりは社会的、世間的に上の立場と呼ばれる類の人間)に、
何かしらの罵倒、圧力をかけられた時。等々…。
イライラのパターンにもいろいろありますが、つまりは納得できないと言う事。
解せない事象に、手も足も出ない。
感じる事は多々あるが、口を出したら私の負けだ。
そう思うようにして抑えるようにしています。挑発には乗らんぞと。
私で止めるようにしているのです。社会貢献なのです。
『貴様が汚したこの水を、海まで流して為るものか』By Katoh The Nora
苛々の果てにはいったい何があるのでしょうか。
未来永劫などは到底期待できないのでしょうね。
在るのは醜態。朽ち果てる迄。
私が口論などの類で口を出してしまうと、ヒートアップしすぎてしまい、
醜い姿と成り果て、揚げ句は人を殺めてしまうかもしれない。
感情を押し殺しすぎたがばかりに、自分でもどうなるのか解らない。
人を殺害するくらいなら、自分が死んだ方がマシ。
未だ誰一人として殺めていない、一つの奇跡です。
俺はアンタを殺した。
だがアンタが殺されたってことは、アンタが俺を殺しかけた、若しくは殺しそびれた。
そういうこと。
だから勘違いすんな。ぼけ。
殺されたアンタの遺影見ながら「可哀想。若いのに。」とかをぬかしては、
俺に向かって、やれ狂人だ、やれ原爆ボーイだとか。
ぬかして勘違いすんな。唐変木。
アンタが悪いんだよ。
俺はこんなことしないのよ。普段は。
手足を全部切断して、でかい壺の中に顔だけ出るように押し込んで、
達磨状態にした揚げ句、選挙事務所にそっと違和感なく置いておく。
そいで当選確実の知らせと同時に、そいつの眼は墨汁で真っ黒おめめ。
墨汁と鮮血との夢のコラボレート。フューチャリング壺。
其れ見てはばんざーい、ばんざーい、さつりーく、はちのーす、と。
民衆のばんざーいの声にいい感じにハモるように半音上げたり下げたりしてみました。
相づちは、日本兵(Hey!)、横井(Yeah!)、空軍(In The Sky!)みたいな即興。イカす。
の様なそんなこと、普段の私はしませんのよ。おほほ。
今回?今回は貴方が悪いのですもの。うふふ。
普段の私は、小粋なガーデンテラスのあるサロンで、セイロンティーをやりながら、
文学に勤しむ、極めて節操のある人間ですのよ。
女性セブンの話しか出来ないわけではないのですわ。おほほ。
みたいな奴が俺。極めて尋常。
『大根は葉っぱまで料理して食べるのですよ』という家庭科の先生から教わった教えに
道徳、質素倹約、エコロジストの精神を見いだしたのを思い出し、
切り落とした腕足をミンチにしてドックフードに混ぜて家畜に喰わせる。
こんなエコで家畜想いの男が何処にいます?
私、俺。エコノミスト。
だから勘違いすんな。ぼけ。
俺は優しい子なのよ。普段は。今は。
紛れもなくゆとりと慈悲に満ち溢れた男の子なのです。
キャンペーン実施中です。
『怒り、嘆きの矛先キャンペーン』の幟を路上で掲げ、
皆で俺を木瓜だ阿呆だと罵る連中の感情の矛先を変えませんか?
真実を見つめる勇気を皆に教えてゆきませんか?
うそっぱちを崇拝する愚民に我々が制裁を加えるときがきたのです。
立ち上がるのです。
銃を拡声器に持ち替え、声高らかに我々の賛美歌を歌うのです。
キャンペーン実施中です。
今なら粉末アルコール10年分をプレゼント。
とか言う事に為ってしまいそうな気がして怖いですよね。
苛立ちでヒートアップだけはしたくないですね。
また、腹立たしさとはこれらのような事が外部に放出することが可能な様。
つまりは苛立ちの後、又は前にくっついてくるセット販売。バリューセット。
お得感は無いです。
苛立たしさ、腹立たしさどちらにも言える事が
どちらも体に悪い
と言う事。
たまんないですよね。
最近胃が途轍もなく痛いのですが、何なのでしょう。
何も食ってもいないのに吐いたり、
眼が何も見えなくなるくらいに霞んだりと異変が多発しています。
苛立ちと関連性が在るのでしょうか?
もう少し自分を観察してみる事にします。
また明日も皆さんに笑顔で接するように心がけます。