極東最前線

Saturday, January 28, 2006

Cow,Pig and the Egg

過ちを
改めざるは
生き恥曝し

世風を肌で感じ、又鬱勃しそうになりながら、
肘をつき、項垂れる。
そんな感じです。

ところで、皆さんは『牛丼』を喰らったことはございますか?
大衆料理として名高い、この文明開化の産物。
皆さんも一度は口にしたことがあることと存じます。

牛肉輸入問題が政治やマスコミュニケーションの中で賑やかに取りざたされる中、
我々一般庶民には、なかなかに手を出せない代物となってまいりましたね。
高級な牛丼なんて、最早牛丼では無いように思います。
近々、高級料理店にも牛丼が並ぶのではないでしょうか?
『ザギンにドンギューでもいーくーくーいー?』(※1)又は
『ギロッポンでチャンネーとドンギュー』(※2)なんて云う発言が業界で繰り広げられるのではないでしょうか?
(※1:銀座に牛丼でも食い行く?)
(※2:六本木でねーちゃんと牛丼)

と、そのようなややこしい話がしたいのではなく、もっともっと身近なお話。

私の家の近所には牛丼業界ではお馴染みのY野家があります。
どうにもこうにも金が無かった学生時分の頃には、
月に1回の贅を尽くした高級料理が、そこの牛丼でした。
究極と至高の料理を遙かに超越した、正に「神のどんぶり」と、当時は最高ランクに君臨しておりました。

当時の食生活ときたら、現代の日本人とは思えぬほど悲惨な有様でした。
基本的には1日1食。
茹でていないうどんに塩を塗して食したり、
百円均一で2個100円のレトルトパウチのカレーを湯に通さず丸飲みしたり、
生米をがりがり囓ったり、
友人の家から「喰わないなら呉れ」と、半ば強引に頂いた『五目御飯の素』を
米4合に対して0.5袋の割合で作り、激薄五目御飯(味は白米)を作ったりしておりました。

今になって考えてみると
「食えてただけまだマシかなぁ」なんて思いますね。
何も食えずに苦しんでる人間も、この世界には溢れていますからね。

当時の言い訳としては
「俺は食を諦めた。300円あるなら、俺は食料を買わずにechoを2箱(当時の価格)買うのだ。」
と、成金悪食のバーストヘッド共を小馬鹿にしておりました。
すいませんでした。

最近は金もある。どや、まいったかとばかりにY野家の牛丼も食い放題。
「何が『神のどんぶり』じゃ。普通の牛丼やんけ。ぼけ。」と、最近は有難みが薄れる一方。
そんなんではあかん。食することにもっと感謝せねばならぬ。
私に今欠けているのは、
「当たり前のことを当たり前と感じずに、一つ一つに感謝すること」なのです。

そこで、食に感謝すべくY野家へ行くことにしました。

Y野家に着き、店員の作業効率や客の回転率を考慮した席の並びが、
妙に自分にとって居心地の悪さを感じ、なかなか席に着けずにいると、店員が
「こちらへどうぞー」なんて、勝手に席を決め、
「馬鹿野郎。お前らのロータリーの一部にはならねぇぞ。俺は地べたで飯を食うんだ。」と
文句の一つも言いたかったのですが、心のリトルな人間に成り下がりたくはないので
その感情を押し殺し、店員の誘導の儘に席に着きました。

最近は牛丼てないのね。悲しいわ。
そんでもってメニューが豊富すぎるわ。解らん。
なんて悲壮に喘いで、一瞬の悩み。注文が決められない。
私が知っているY野家は、席に座った瞬間に注文をするのが粋。
席に座ってから躊躇しているようでは、「この童、素人だな。虚けが。」と店員になめられてしまう。

そこで平静を装いながら一言。
「並と卵。あとけんちん汁を呉れ給え。」と。

「はい。ありがとうございます。並いっちょう!卵1こ!おあとけんちん1つ!」と店員。
自分に100点満点をあげたい。完璧な注文ではないでしょうか。
牛丼は最近消滅しているので豚丼。
只そこで、「豚丼の並」と注文するか「並」と注文するかで勝負はほぼ決まるのです。
牛丼がまだ大衆料理の第一線で活躍していた頃は
「並」と言えば「牛丼の並」が常説でした。
しかしながら豚丼が勢力図を拡大している昨今。
「並」は「牛丼の並」と「豚丼の並」の2つを表す言葉となってしまっているのです。

にも係わらず、私は何故「並」とだけ店員に伝えたか。
それは『賭け』でした。
もしも「並」とだけ伝えて、店員が
「あいにく今は牛丼がお休みで、豚丼になるのですがよろしいでしょうか?」
なんて質問を返されるようであれば、私の負け。
恥ずかしい。死にたい。今すぐ。と鬱屈してしまっていたことでしょう。
私は「牛丼は今現在メニューにない」ということと「Y野家の現在のメインは豚丼」というのを天秤にかけたのです。
そして後者に重きを置いた私は「並」と注文するに至ったのです。
勝った。この勝負もらった。
私は、そう思っていました。
この瞬間までは…。

しばらくすると、店員は豚丼を先ず持ってまいりました。
ん?まて。まずどんぶりものを持ってくるのか?これがメインだろ?
豚丼だけ先に持ってこられてもしょうがねぇんだよ。この愚図。
解るだろ?卵、分かり易く言うと鶏卵。
それが無いとこの豚丼は何の意味も成さない、只のオブジェと化すのだよ。
一瞬己の目を疑い、必死に目を擦っては見たものの、目の前の豚丼は現実。
己の目を潰して今すぐここで抗議の焼身自殺をしたろか、なんて思っているところにけんちん汁登場。

この野郎。なめてんのか。
日本料理(大衆料理)の基礎其の1。
「まず汁物で箸を湿らせる」だろが。
私の理想を此処で声高らかに謳うならば、まず一番初めにけんちん汁を持ってこい。
そして、そのけんちん汁を2,3口啜っているところに鶏卵や。
その湿った箸で鶏卵をかき混ぜる。
十分に鶏卵が溶かれた時に初めて豚丼を登場させる。これや。
私の理想ではありますが、皆さんも同じ心境ではありませんか?

そんなこんなで、豚丼にはいっさい箸をつけず、只々けんちん汁を啜っていたわけですが、
鶏卵が一向にやってこない。
丼飯はその熱を放出し冷める一方。

ここは一つ店員に文句の一つでも言ってやらねばならぬ。そう心に決めたまではいいが、
何故か2人いた店員の1人は奥の扉を開け放ち、なにやらガサゴソと忙しいふり。
もう1人の店員に関しては、何処を見渡しても姿が見えず。

そこで私はある1つの仮説を立ててみました。

「私に豚丼を食べさせない気なのではないか」

卵を注文した人間は、卵が出てくるまで豚丼を食さないという特性を逆手に取り、
私のような汚い格好をした愚民に、自分たちが作った丼飯を食べさせたくない。
若しくは、只、平凡に働いているだけではもの足りず、客の困った表情を見ては、ひたすら楽しむ。
抵抗か、愉快犯的な行動なのか。
私には解りませんでした。

しかし私は負けん。
鶏卵が無いくらいで豚丼が食えないと思ったら大間違いだぞ。
高々鶏族の類の卵如きで、私が鬱屈すると思っていたのか。この大馬鹿者め。
食ってやる。食ってやるさ。豚丼。
と、私はけんちん汁を一気に飲み干し、豚丼をかっくらう事を心に決めました。

そして喰らう。
怒り、焦りが悟られないよう、細心の注意を払って、気持ちゆっくり喰らう。

あと2口で完食やな。私もよく挑発に乗らずに耐えたものだ。
大人になったやないか。加藤よ。

「おまたせしました。卵になります…。」

目眩がしました。
まさかこのタイミングで卵か…。冗談も休み休みイェイ。

しばしの間、店員と私は絶句。
店員は気まずい表情を浮かべ、そそくさと奥へ引っ込みました。

負けだ。負けだよ…。
完敗だ。

「ありがとう」

私は「卵を持ってきてくれてありがとう」と言う意味と、
「勉強させてくれてありがとう」、2つの意味を込めて店員様にありがとうを言いました。
敗北を知ることは、いつか必ずしや己の糧となります。
負けることを知らない人間は常に緊張の糸に張りつめられ、
その糸が切れたとき、今まで蓄積されていたものの決壊と共に廃人となってしまいます。
私は敗北に打ち拉がれて、これでもう廃人にならなくてすんだのだ、ありがとう。と
また、店員様に感謝しました。

最後の2口の米に、卵と悲しみを思い切りぶちまけて、丸飲み。そして完食。

食事代を支払うとき、店員様の表情が悲しみで溢れておりました。
いいんだよ。何も悲しまなくて。
私は喜んでいるのだから。
こんなにも清々しい敗北感はもう二度と味わえないかもしれない。
そんな体験をありがとう。

そんな店員様の名前を覚えておこうと、胸元に光る名札をちらりと見ると
名前と共に「新人ですのでよろしくお願いいたします」
との文言が添えてありました。



ひょっとして、鶏卵のことは忘れてただけじゃあるまいな。
まさかな。考えすぎだ。

頑張れよ。
また皆に鶏卵の大事さ、敗北感の大事さを伝える伝道師としての活躍を期待しているよ。



ふぅ。
酒でも飲みます。


Thursday, January 26, 2006

迅速に果敢に

私、案外せっかちなのです。
せっかちと云ふよりも
「短縮できるところは短縮したい症候群」
と云ふ方がしっくりきますね。

一人で街の雑踏を闊歩するときなんかは、極端なくらい早足です。
するりするりと群衆の中を掻き分け、
ティッシュ配りの兄ちゃんなどには目も留めず、
ましてや「うるせぇ、三下(心の声)」と一瞥をくれてやり、
そこから2歩ぐらい歩みを進めた後に「ごめんね、冗談だよ(心の声)」ともう一度振り返り
兄ちゃんに謝罪と愛の視線を投げかけ、
調子がいいときは「ごめんなさい。やっぱりティッシュ下さい。」と自らの非を改め、
金色の如くに輝く(かのように見える)ティッシュを2、3個頂きます。
そうしてまた闊歩していると、全身からは汗が噴き出し、脚はつりそうになり、もうぐだぐだ。
しかしながら『ここで歩みを遅めたら死ぬ』と意味の分からない焦りで自分を奮い立たせ、
泣きそうになりながらも気合いで高速歩行を続けます。

何故このようなことをするのかと云うと
「街を歩くことに対して、何の興味もないから」なのですね。

「街を歩く」と云う行為の目的は「目標物に到達するための移動」です。
それ以上でもなければ以下でもありません。
どちらかというと省略したい行為です。私にとっては。

「歩くのが好きで歩いています」や
「ダイエットと健康のためにウォーキングをしています」というのは
決して目的が『移動のみ』ではないですよね。
それならばオッケーな訳です。

さてそこで、移動の為に街を歩くことで得られるものとは何なのでしょうか。
自分にとって有益ではない、利益を見いだすことが出来ない現象に
時間をかけているのは勿体ないなぁ…、何て事を思うのです。

勿論、有益なこともあるかもしれませんが、
私には未だそれを見つけることが出来ません。
「お金を拾うかもしれないぜ」とか
「可愛いねーちゃんがうじゃうじゃいるぜ」とか
「路上に剥いてある甘栗が落ちてるぜ」とか仰る方が希にいますが、
それは私にとっては無益です。
なので棄却させていただきます。

しかしながら私、街中での生命の観察(人間観察などと云ふこともあります)は好きです。
様々な人、動物、その他をじっくり見るのは自分にとって有益であると認定しています。
様々な感情の流動する様を見るのは、とても面白い事だと思います。

「じゃあゆっくり歩きながら見たらいいではないですか」
てな事を仰る方も多いと思いますが、
「さてさて。ゆっくり歩いて観察でもしようかいね〜」なんて思いながら歩くと、
これまた極端に遅い。
家に帰るまでの道程が、遙か天竺へ到達するかの如くに時間がかかってしまいます。
私が家に帰るのが先か、地球が滅亡するのが先か、細木数子先生が「ごめんなさい」と言うのが先か。
そんな壮大なテーマの元に帰宅。
それも悪くないかもしれませんけどね。

遅く歩いたら遅く歩いたで、世間様にも多大な迷惑をかけてしまうのですよ。
「この木偶の坊、ちゃっちゃと歩きやがれ。殺すぞ。」
と5分おきぐらいで罵倒、誹謗されてしまうことでしょう。

なので私は、観察を執行するときは、停滞するようにしています。
路上の喫煙スペースで一服やりながら、とか
小粋なカフェ・テラスでカプティーノをしばきながら、とか。

急かさなければならない場所と、停滞してもいい場所があるのです。

学生時分の修学旅行で、広島の平和記念資料館に行ったときのこと、
あまりに熱中して一つ一つを熟読、熟視しながら歩を進めていたので
気付けば周りに学生と思しき人間は一人も居らず、
「あれ?ちょっと早く歩きすぎたかいな?」なんてな勘違いをしたことがあります。
本当はその時点で、皆は全て観覧し終わり、
外で私が出てくるのを天蚕糸ね引いて待っていたわけです。
それでも相変わらずのペースで泣きながら観覧していたものですから、
修学旅行を代行している旅行業者の添乗員様が、慌てて私を呼びに来ました。
「みんな外で1時間くらい待ってるんだけど…」
「え?未だ半分も廻ってないんすけど」なんて。

平和記念資料館は停滞して観察してもいい場所、否、しなければならない場所。
そう私は認識しております。
しかしながら学校側は「此処はサクッと見て回る場所」なんて
戯けた認識をしているばかりに、私は未だ平和記念資料館の半分も見ておりません。
何時かもう一度見に行こう。3日くらいかけて。

己にとって有益な場面?それとも省略しても構わない場面?
それを考えながら行動を起こすと、
自ずと「己が必要としているものが何か」というのが見えてくると思いますよ。

只、焦りは禁物。
「急がば回れ」は物理的に遠回りをしろ、という意味ではなく、
精神的にゆとりを持ちなさい、という意味ですよ。


しかしながら最近では街を歩くときも「鍛錬をしながら移動」を心がけています。
瞬きをしないとか、息を止めながらとか、ハムストリングスを鍛えながらとか…。
何か目的が無いと、苦痛になってしまいますからね。
無理にでも目的を持つ。
しかし省略、短縮できるものならしたい。
そのくらいでいいのではないでしょうか。

緊張と弛緩の間に日常があるのです。
もう一度だけ見直してみませんか?



Tuesday, January 24, 2006

苛立ちは現代の伝染病だ

努々ならぬは漢の発芽。
雲散霧消の匍匐前進。
競歩か将又牛歩なのか。
走れぬ体は、只歩むのみ。
世捨て人、否、仕置き人。
狂い咲きては乱れを知らず。
嗚呼、世直し。
未だ監獄真っ只中。

狂いそうになるよ。まったく。

さてさて、今日はやたら冷えるので、酒をしばきながら書きます。
皆さんも風邪なんぞという、巫山戯た相性でお馴染みの病の類には、
気を付けながら、酒をしばいてください。

ところで皆さん、『怒りの波動』を感じたことはございますか?



「何ぞやそれ。怒りの波動ときたで。おい。又加藤のボンクラときたら頓珍漢なことぬかしよってから。いてまうど。こら。」
と私に対して不快な印象、又は苛立ち、腹立たしさを感じ、
ムシャクシャしてきたので、部屋中のありとあらゆるプラスチックにサインペンで
「ぷらっちっく」と材質の説明を書き殴り、
更には部屋にホースで水を撒き散らし、「寝るところがないど」と泣き喚き、
悲しみと怒りでベランダに飛び出し、一人で花火。
「糞。木瓜。滓。」などと呟きながら、硝煙の臭いで又一泣き。
八つ当たりでもしたろかしらん、と外へ飛び出し、壁を一つ殴ってみると、拳の骨を粉砕。
それでも「畜生。畜生。」とひたすら壁を蹴り続けていると、
いつの間にか、どこからともなく現れた警官と野次馬に囲まれ、
警官に「ちょっと君、いいかな。」なんて気取った台詞を抜かしやがるので、
「俺は狂っていません。『怒りの波動』に怒ってるのです。」と丁寧に説明し、
狂っていない証明として、踊りを一つ披露したろ。
ダンス。あ、ダンス。ああ、ダンス。
ギャラリー皆笑顔。どや。俺のダンスで皆が笑顔や。
平和の舞やど。こら。何が「ちょっと君、いいかな。」や。
まったくどいつもこいつも。
「怒りの波動」に「ちょっと君、いいかな。」やと。
よかねぇよ。怒ってんのよ。手が痛ぇのよ。
よかねぇよ。医者呼べや。
と、いつまでも踊っていてもしょうがないので、やめた。あほらし。
何や。どいつもこいつも腐れ目ん玉ぶら下げて、
ジロジロニタニタ見よってからに。動物園ちゃうど。
こんな日に限って帯刀してないわん。刀があったら皆殺しやど。
てんで帰ろかなんて思ってたら、また「ちょっと。君。待ち給え。」と警官。
やかまし警官やな。はよ医者行かせ。
あー腹立つ。
てんで警官の目ん玉に指突っ込んでほじったった。わての手、折れてまっせ。いてて。
「ぽろん♪」、若しくは「とぅるん♪」の様な効果音がやたら可愛いね。
そんで目ん玉取れた訳やけど、何やろか?
周りが驚愕の表情、又は恐怖の表情。
さっきまでの俺の舞はどうした。
あんなに皆笑顔だったろう?
この警官のせいで、俺の舞が台無しや。あほか。
も一つ踊らにゃならん。俺が平和を呼ばにゃならん。
てんで踊り散らしては、たまにギャラリーちら見。
まだ笑顔ちゃうな、どないなってんねん。祈りが足らんのかしらん。
解った。手が赤いからあかんねん。このボンクラ警官の目ん玉ほじったとき
手が赤くなってしもたんや。これや。これがあかん。
腐った臭いがぷんぷんする。饐えた臭い。
ハンケチで手を拭き拭きしとったら、どっからともなくもう一人警官。
「貴様!なにやってやがる!手を挙げろ!」なんて踊りの最中に不謹慎やで。こいつ。
そんで、怒るのも人間が小さいよね。てんで私は怒らず冷静に
「何でしょう?」うくく。何でしょうって何でしょう。
そんでよう見たら、この警官、拳銃構えて震えていやがる。
撃ち慣れていないのかしらん。ひよっ子めが。
そもそも何で拳銃向けられにゃならんのや。あほか。
てんで理不尽な出来事に納得できんので
倒れてるもう一人の警官(目ん玉無し)のほうの拳銃パクって乱射。
拳銃構えてた警官の目ん玉に炸裂。おお。目無し二人目。
そんで笑わない群衆も撃ってみよかしらん。うふ。
なんて思ってたら、いつの間にか周りには誰も居ない。
遂に私の平和の舞は完成され、群衆は全て天へと還っていったのだ。
今世界に残されたのは、私と、目の前に倒れている警官二人(目ん玉無し)。
さよか。遂に。
私はやはり天に選ばれた天舞人だったんや。
天よ。私はやり遂げました。全ての人達を貴方の元へ還しましたで。
これで私の役目も無くなった。否、完結したのだ。
「怒りの波動」を超えたった。

ほんで、手に持った拳銃で自ら目ん玉ぶち抜いたった。

手は折れたまま。




上のような状態即ち、「怒りの波動」の放出状態にあります。はい。

つまりは苛々が他人に伝わる(伝える)事を「怒りの波動が放出された」と言うわけです。

自分は隠している、ヘラヘラとしながら内心は怒り狂っている。
只、何故か周りはよそよそしく、
気を遣い、「グラス空いてるけど、何飲むん?」とか聞いてくる始末。
隠しているつもりでも、苛立ちと言うものは他の人間に知らず知らず伝わってしまっているものなのですよ。

私自身は、けっこう「怒りの波動」に敏感です。

人が怒っていたり苛々していたりすると、
こっちにもそれが伝染し、即刻フェードアウトしてしまいます。

そこで思ったのですが、
「他人の苛々には正面から向き合わねばならないのではないか」。
苛々から目を逸らすと言うことは、
怒り、憎悪が渦巻く戦渦の中でも、同じように目を伏せてしまうのではないか。
そんな人間が、混乱の中の皆を救えるのだろうか。

私は受け止めていきたいと思います。世界の苛立ちを。
そしてフラットな世界を建設していきたいと考えています。
苛立ちのない、衣・食・住の基本の三角形が
流れるが如くに回転する、パーフェクト・ワールド。
貧困、飢え。
子供達の悲しみや苛立ち。
私は受け止めなければならないのです。

皆さんも「怒りの波動」を感じることがあったら、
変に気を遣って、いらぬおべんちゃらを言う前に、その事実と向き合って下さい。
そっとフェードアウトしてしまうのではなく、その事実と向き合って下さい。
「知るか、木瓜」とか罵る前に、貴方にはやらねばならぬ事があるのです。

世界を救うためには、全員が救世主になる必要があるのです。


そこで皆さん。
明日、誰かの「怒りの波動」を感じたら、それとなくその人に臭わせてあげて下さい。
「あんた、苛立ちが外に溢れ出てるけど、何かあったん?」てね。
相手はもっとイライラすることでしょう。
あかんやん。


Sunday, January 22, 2006

ライフ・デザイナー(指図する人間)

やってる?
人生設計やってる?

と、いうことで生活のその時その場で、行き当たりばったりで生活するのって
個人的には何となくですが嫌やなぁと。
不安なんでしょうね。
心配なんでしょうね。
失敗したくないからでしょうか。

勿論一概に「当たって砕けろ」と言うような生活スタイルがいけないと言っているわけではありません。
やってみなければ解らない事なんてたくさんありますからね。

筋が通っていない事を平気でやりたくないな〜って。
人に苛々を叩き付けたり、
己の発言の絶対性を主張し、相手に強要したり、
「金持ちの言うことは聞いておけ」と教育されたり、
やりたい放題やってる人間に、ちょっと抵抗した発言をしたばっかりに
突然キレだしたので「これからはあいつには抵抗してはいけない」のような
暗黙の了解ができてしまったり(以降は更にやりたい放題)。

私、理不尽な出来事を全てイエスと言えてしまうほど
できた人間ではないですよ。

1日のプラン、1年のプラン、1生のプラン。
計画と言うよりは目標と言った方が相応しいですかね。
「今日は最低でもこれだけはやっておきたい」
「今年は○○○○○のような年にしたいね」
「その事象は、私が生涯でやり遂げなければならないのだ」
といったような目標をもって生きていきたいとは思いませんか?

分かり易いところで考えていきましょう。

『皆さんは明日、どのような1日にしますか?』

との質問に対して、私が思うに2パターンの人間がいると思います。
1つは「明日は○○○と○○○をやって、○○○のような1日を送りたいわ」と
目標を明確に提言できる人間。プランがある人間とでも言いましょうか。
もう1つは「明日になってみなければ解らないよ」と
宿命、運命、成り行きに任せる人間。

どちらも間違っているわけではありません。
目標はあるのだけれど、実際何があるかなんてのは
その時になってみないと解らないのですからね。

私個人の見解としては
『この2パターンの考え方の中間ぐらいが丁度いい』
てな事を感じています。
目標ガチガチで、道に外れたことができなくなってしまったり、
ダラダラ惰性で生きてしまったり、
そういった生活というのは疲れてしまいますよね。

現実を尊重するか、希望を尊重するか。

人間性がモロにでてくる、とてもおもしろい質問なので、
皆さんも明日、友人などにこの質問をしてみてはいかがですか?

そこで『ライフ・デザイナー』なんて職種を想像してみました。
保険屋さんとか役所が提案するライフ・デザインではなく、
人生そのものを案内、というか計画を立ててくれる職業。
カウンセラーと少々近いのですが、全く違う職業です。
※あくまで私の想像上の職業です。
 ハローワークに行っても紹介してくれませんよ。

地図がもしも人間だったら、この職業に近いのかもしれませんね。
只、圧倒的に違う点は、

『地図は目標を決定してくれない』

という点ですかね。
目標も決められずに、只々鬱屈しているだけの人間に
到達点を明確にしてあげる。
そんな役割の人間に、我々は人生の道を尋ねる。
そしてライフ・デザイナーは断言するのです。

あなたは北に向かいなさい。そして刀鍛冶になるのです。
兵器としての刀ではなく、精神の、心の刀を作るのです。
それを平和のために使いなさい。
皆がお腹いっぱいに食べられるだけの世界を作るために、その鎚を振るのです。
常に刀を鍛えることに集中しなさい。
様々な出来事に、感受性のアンテナを立てなさい。
感じなさい。泣きなさい。笑いなさい。
それが刀を鍛える、一番の鍛錬です。
時には民衆の刀も鍛えてあげなさい。
あなたの心の鎚で、皆の心を火の刀とするために生涯を費やしなさい。
あなたは大丈夫。
必ずやり遂げることができます。
私もそれを信じていますよ。
さぁ途中まで一緒に行きましょう。

の様に人生をデザインしてくれる。
もっと細かく、

「明日は此の服を着なさい」
「○○ちゃんと飲みに行くときは白木屋にしときなさい」
「車はセルシオにしなさい」
「ブロンディのベスト盤は買いですよ」

など、価値観を強要するような職種。
只、主観的価値観を見失ってしまった現代人にとっては
正に救世主とも言えるのではないでしょうか。
己の価値観が解らなくなってしまい、
何処に行けばよいのか、何をすればよいのか、
後は朽ち果てるしかないのか…。と項垂れてしまっているような方々にとっては
手助けになれるのではないでしょうか、なんて。
宗教っぽい?

しかしながら、最初のほうにも述べましたが
「ガチガチよりも、ちょっと曖昧くらいが丁度いい」
という『遊び』の要素が大事になってくるのですよ。

ライフ・デザイナーとはあくまでも提案する人間。
勿論自分の人生ですから、自分が自分であるための譲れない要素があるはずですよね。
それを織り交ぜて、オリジナリティーのある人生を送ることが大事になってくるのです。
ライフ・デザイナーという職業が、そのヒントとなる役割を担うことができるならば、
私はその職業に就くために邁進する所存です。

只、私には未だそれだけの力量はない。

風の体が欲しい。
林の心が欲しい。
火の脳が欲しい。
山の意志が欲しい。

人生とは糾える縄の如し。
風林火山の信念と共に、私は生きている。


最後に詩を紹介します。


『かます』

泥水に横たわり

いつもの鼻歌一つ

余裕があるなら

いつもの鼻歌二つ

岸壁で下向いて

いつもの鼻歌三つ

余裕があるなら

いつもの鼻歌四つ

待っている

あなたが来るのを

みそ汁すすりながら


   ⓒK.Katoh(2006)



さてさて夜も更けてまいりました。
私の明日は如何でしょうか?
これから、私というライフ・デザイナーに尋ねてみることにします。



Friday, January 20, 2006

少年Z

『次に死にたい奴、前に出ろ!』

北斗の拳のケンシローが放った衝撃的な言葉です。
こんな事を言われて、前に出る人間なんているのでしょうか。
いないって。

近年では、殺戮や虐殺、つまりは残虐な描写のある
アニメや本、ゲームなどは有害なものとして年齢規制をしているものが多くなってきております。
『あなたは15歳以下だから、このゲームはやっちゃだめ』
なんて事を言う親御さん方も増加の一途を辿っていることでしょう。
果たしてそれでいいのでしょうか?
それだけの理由で束縛をしてしまってもよいものでしょうか?

何故そのような規制がかかるようになったのかを簡単に説明します。
とてもとてもとても簡単に説明すると

「真似するから」

その一言で片づくのでしょう。
ゲームやアニメで表現されていることを、実際に自分でもやってみたくなる。
空想と現実の境界線がピンぼけしたかのように曖昧になってしまっているために、
現実の世界の法や倫理と言うものを度外視してしまう。

確かに近年の少年犯罪では『ゲーム感覚で』という軽いニュアンスのものが
多く見受けられます。
只、それらの少年犯罪が全てアニメのせい、ゲームのせいかというと、
勿論そうではないので注意してください。
そこにも情報操作が蔓延している可能性がありますよ。

様々な原因があるのだと思いますよ。
教育や生活環境。
触発とは思いがけない部分にあったりしますよね。
人が過ちを犯すところには、必ず道程の中で歪みを生じさせる何かがあるのです。
それがどのようなものかは、私には解りかねますが。

媒体を規制しても、精神までは規制できないのです。

しかしながら
「ガキの犯罪なんてもんは昔からコンスタントにあったもんだろ。
今更何を抜かしてやがる。腐れマスコミュニケーション野郎共め。」
と言うような事を少なからず思ってしまったりしませんか?
あんまし罵倒はよくないよ。私俺。

昔から水面下で多数あったんですよ。少年犯罪って。
それが只単に最近になって浮き彫りになってきているだけ。
1997年の神戸連続殺傷事件があまりにもショッキングすぎたために
そこから少年犯罪への注目度が著しく上がったようにも思います。
法は整備され、マスコミの対応なども注目されるようになりましたね。

このように、原因を何か一つに絞るというのは
人間の視野を狭くし、且つ偏った思考を持つ、たいへん危険なことだと思います。

日常生活にも同じ事が言えるのではないでしょうか。


給食袋盗んだの誰や。
おい、山下。おまえか?それとも二階堂。おまえか?
ちゃうんか。
なんや。誰か解からへんな〜。
ええわ。お前ら全員机に伏せ。ええから伏せぇ。
ほんで手ぇ挙げ。
先生にしか解からへんから。
正直に言うてくれたら、先生も怒らへん。
正直に手ぇ挙げ。
人間ちうもんはな、歩みん中で、何回も足を踏み外してしまうもんや。
踏み外してもええねん。
またちゃんと道の上を歩き直したらええねん。
給食袋なんて世界の混沌と比べたら、蚊の屁みたいなもんや。
蚊の屁ぐらいでクヨクヨしてたらあかん。
お前ら若もんには、まだまだ将来があるさかいな。
蚊の屁如きで躓いとったらあかんねん。
スパーンと手ぇ挙げて、ビックな人間ならなあかんで。
さぁ誰や〜。
やった奴は手ぇ挙げろや〜。

と、言って先生がそぉ〜っと手を挙げる(自白)。


話の流れからいくと、犯人は生徒ですよね。
それが固定観念であり、原因を初めから特定してしまっているということなのです。
しかしながら犯人は先生であると。
柔軟な頭を持てていなければ危険予知ができないまま朽ち果ててしまうのです。

規制とは少数派に合わせるもの。
少数派の人間達が全うに社会生活を送るために、多数派の人間が決めたことに合わせているのです。
只、その少数派にも様々なタイプがあるのですよ。
それを一つの規制だけで均衡が保てると思ってしまっては大間違いです。
規制を増やせと言っているのではありませんよ。
『決めつけるな』と言っているのです。

最後に、媒体規制に熱心な人達へ。

ひょっとしたら、少年犯罪は
「規制されることが嫌いな子供達の、できる限りの抵抗が具現化されたもの」
なのかもしれませんよ。
原因は一つではないです。
結果には個々に異なった要因があるのです。
それでも規制がしたいならば
世界中の子供達全ての眼を潰し、口を塞ぎ、耳を塞ぎ、
密室に監禁し、柱に括り付け、睡眠薬を投与し続けるのですね。
それで少年犯罪はなくなりますよ。

KISS MY ASS


Monday, January 16, 2006

スットコ社会悪

世間(多数派の見解)では
デスチャと言えば『ディスティニー・チャイルド』の事を指します。
決して『ディスチャージ』の事を言っているのではないので、
注意してください。

世間(多数派の見解)では
ELTは『Every Little Thing』の事を指しています。
ENTと聞き間違えて『Extreme Noise Terror』の事だと思いこみ、
淡々と会話を続けてしまうと、最後には悲しい目に遭いますよ。

世間(多数派の見解)では
H2Oは「思い出がいっぱい」を歌っている2人組です。
ニューヨーク・ハードコアのバンドではないです。

世間(多数派の見解)では
スタークラブは日本のパンクバンドです。
福井駅前にあるカラオケボックスの事ではないです。

嗚呼、また間違えてしまったようです…。


と言う具合に、人間には自分の知識を優先して考えるが故に
勘違いというものを頻繁に引き起こします。

それが勘違いだとどちらかが認識すれば、そのお話は
「いっけね〜。また俺って奴は勘違いしちまったい。」と
丸く収まるのですが、
お互いが自分の知識を優先した揚げ句、
譲り合うことができなくなってしまった場合、
その会話、関係は破綻します。

みんな自分が正しいと思っていますからねぇ。

私も頻繁にですが知識を強要させられるように感じることがあります。
しかし何分、強い信念を持ってしまっているが故に、
相手の意見をなかなか受け容れられなくなっているのも事実。
頑固なのは順応性を下げるものとして、
自分自身では「悲しい頭」だと卑下しております。
残念に思います。

只、一生懸命に解釈しようとはしています。
会話が発生してから解釈までに相当な時間がかかってしまうので、
とりあえず防御しとこうか、てなもんです。

一般常識というのは、時に少数派の人間達を迫害します。
私も知らず知らずのうちに誰かを傷つけてしまったり、
また頻繁に(勝手に)傷ついてしまっていたりします。

A「アホちゃうか?」
B「おかしいやろ」
C「なんでやねん」

などという発言。
主観的な考え方を持ち、自分の常識を相手に強要する発言ですね。
そこで「私が思っていることは、あくまで私の主観的理論ですよ」てのが
相手に伝わるようにA〜Cの発言してみましょう。

A「私の今までの生活、環境の中で体得してきた知識を元に考察すると、君の行動はアホちゃうかと思いますが如何ですか?」
B「君のその発言は、世風と照らし合わせ、且つ私個人の意見も付け加えさせて頂くと、おかしいやろ。」
C「これは私の考えであって、君の考えはもちろん尊重されるに値します。そして教えて欲しいのです。なんでやねん。」

のような言い方に置き換えることを推奨します。
諄い言い方ね。
私はしませんけど。

常識は世間を映す鏡。
その鏡には自分が映っているでしょうか?


最後に詩を紹介します。


『最終兵器とは常識』

残忍、彼の目が物語っている

過酷、私に襲いかかる

殺戮、彼は又繰り返し

疎外、その子供達

弾圧、苦痛に歪むその顔に

撲殺、剣は振り下ろされた

凄惨、世界は目を塞ぎかけ

酸鼻、私は目を開きかけている

慈悲、求める者はいつの時代も弱者

重圧、与える者はいつの時代も常識ヘッド

司る者は…

右手に破壊、左手に孤独

命尽きるまで、巡業は続く

   ⓒK.Katoh(2006)



明日に繋ぐ、優しさのバトン。
その次も、またその次の日も。
連鎖を絶やしてはいけない。


Sunday, January 15, 2006

二天一流

その刀は、天をも切り裂き、
その鎧は、地獄の業火にも耐える。
その兜はいかがかな?
少々重すぎるのではないかな?



『私はめちゃめちゃタフなんかもしれん』
てな事を最近になって頻繁に感じるようになってきました。
自意識過剰かしらん?ふふふ。

肉体的にタフと言っているわけではないです。
すぐぜーぜーになるしね。
長い階段とかの前に立つとウンザリしますし。

精神的な意味合いで『タフ』だなぁ…なんて。

打ち拉がれる、なんていう経験があまりないように思えます。
挫折するとでもいいましょうか。
挫折して落ち込んだりといった経験があまりない。

そりゃあ考えさせられることは頻繁にありますよ。
ただ、それに対してとことんまでネガティブになったことがない。
何処かで自分なりの決着をつけ、
次はどうしようか、という切り替えができているように思います。
うんうん。なかなかの奴だ。自画自賛。

そういう人間が好きなんですよ。私は。
もしもそのような人間に出会ったら、
その人間を尊敬し、そいつのように頑丈になりたいな〜
何て思うでしょうね。

だからそういう人間になりたいと思って、
己をそれに近づけるべく鍛錬した揚げ句、
今の自分が成り立っているように思います。

それに自分が精神的に強いと思える所以がもう一つ。
「この辛い現状を、どうやったら面白く皆に伝えられるか」
と言うのが心の支えになっているように思います。

例えば女の子にフられました。
ごく一般的な男子の多くは落ち込んだり怒ったりしてしまいますよね。
そして女々しくも夜な夜な布団の上で泣き続け、
翌日の会社、学校すらも休み、
一人で海に行って「バカヤロー!」などと喚き、
携帯電話のメモリーを泣きながら消去。「さよなら」なんて言いながら。
そして強めの酒なんぞを煽りながら、
「俺はあいつを見返すほどのイイ男になってやるさ」てな恥言(失態)を吐き、
街で(学校で・会社で)その女の子を目にする度に
ため息と共に新たなる怒りが芽生え
「あんな売女のことなんか知ったこっちゃねぇよ」てね。
本当はまだ忘れられないくせに〜。このこの〜。土民め。

例えば仕事で何かしらの失敗をしたとします。
ごく一般的には、落ち込んではそれに対してどうしていくか。
建設的な創造をしていくためにはどうするべきか、や
この失敗を取り繕うにはどうするべきか、など。
保身や発展のために全力を尽くしたりしますよね。

そんなことを考えたりしますよね。

これらの2つの例を自分に当て嵌めて考えてみたのですが
「落ち込む」という部分が自分には欠落しているねぇなんて。
落ち込むどころか、
「この話を面白可笑しく伝えるには、どういった話し方をすればよいか」
てなことを即座に考えているように思います。
だから私にはあまり、隠し事が無いと言えば無い。あると言えばある。
グダグダの人間と言えばグダグダの人間ですね。
全てを「ネタ」としてしまっているのですから。

只、誰かを巻き込むようなネタは仕込んではいけませんね。
自分一人が傷つく、いわゆる「自虐的」なネタでないといけないのです。
もしも誰かを巻き込んで、その人まで中傷されるようなことになってしまったら
私は自分自身に起きた出来事を皆に解りやすく伝えます。
笑い何ぞは無しで。

『私一人を笑え』By Katoh The Comedian

自分の感情を守るための防御策として
盾と鎧として、このような考え方になることを選んだのでしょう。
もちろん無意識に。

それが偏にいいことだとは言えません。
私はそれが好きだと言うことです。

「前向きな考え方」と言うのが、皆さんはどのようなことか解りますか?
プラス思考やポジティブ・シンキング。
建設的な思考や己の勝手気儘に己に利益があるような考え方。
祈り、希望。
これらは全て当たりです。正解。
只、これらは「自分が発信者としての前向きな考え方」。
では「受信者としての前向きな考え方」とはいったい何でしょう。

それは「心を武装すること」です。
心に鎧を着せて、刀を持つこと。
心が浸食されないような工夫をすることも「前向き」と言えるように思います。
傷ついてダメージを受けっぱなしでは、前には進めないですよね。
頑丈にならなくてはね。

語弊があるかもしれませんが、
「心を武装」とは、外部に自分の感情を出さない、と言うことではありませんよ。
鎧を装着する、なんて言うと一般的には「感情を押し殺す」ことだと思われがちですからね。
間違わないでくださいね。
あくまで保身です。抑圧ではないですよ。

攻撃は最大の防御でありますが、
防御が疎かであっては、自信をもって攻撃できませんよね。

攻撃とは誰かを傷つけることではありませんよ。
躍進すると言うことです。


さてさて、夜も更けてまいりました。
明日は太陽が昇るでしょうか。
常識をもう一度見つめ直す男。加藤。タフネス・ガイ。

さあ、みなさんも。


Saturday, January 14, 2006

コンテンダー

鬱悶、されど狂気の盾と矛。
全てに耳を傾け、行き詰まり煩悶、懊悩。
影を畏れ迹を悪む、まさに是。
患難、艱苦。僥倖を望みては、兆しを夢見ては。
この世は此岸。
悩まずして生きられるほどの土壌、我に無し。
震憂。いやさ真憂。
憂いの裁きに手も足も出せない。

恒久の平和を乱す行為は違法論として国際法として違法とされています。
ケロッグ・ブリアン条約、国連憲章によって武力行使は違法化された訳ですが、
そのような枠組みというもの自体が、私にとっては寂しいことでもあります。

・自衛の場合
・安全保障理事会において認定された「国際社会の平和と秩序への脅威」に対する強制行動
・地域的取極や地域的安全保障枠組みにおける強制行動
上記以外の武力行使は違法ですよ、というのが国際法。
実際、これらに反する形で同盟加入国は第二次世界大戦を引き起こすわけです。

本日は何故戦争というものが起こってしまうのか、というお話。

戦争が起こるのにも目的というものが存在します。
「侵略戦争」「自衛戦争」「制裁戦争」と、ニュースなどでは目的によって
戦争自体の表現を類別することがありますね。
しかしながらこれらは当事者(被害者・加害者)の主観が入り交じる余地が大きく、
真意の類別というのは困難です。

只一つ共通の目的として言えることは、
『自分の意志を相手に強制するための手段』
として戦争が起きているということなのです。

己の意志とはそもそも何か。
宗教、宗派、思想の違いであったり
民族の違いであったり
国境線や領土問題であったり
領土拡大、他国への侵攻が目的であったり、と
いかにせよ自分中心の考え方であることを認めざるを得ません。
もっと噛み砕いて言うと

『私と考え方が違うので、虐殺します』

と言うようなことも一口に言えてしまいます。
しかし戦争が勃発する理由はこればかりではありません。
最も大きな理由としては他にもあるのです。

『戦争とは他の手段をもってする政治の継続である』

と、その昔、クラウゼヴィッツ陸軍将校が戦争論の中で説いています。
これがつまり何を意味するのか。
つまりは、戦争とは政治的観点において、合理的に行動ができるということなのです。
政治を行う上で、戦争には様々な産物がありすぎてしまっているのです。
軍需産業による好景気をもたらし、相手国の資源を略奪する。
産業の発展と戦争とはイコールの関係なのです。

つまり戦争を無くすためには、
戦争が非合理的(儲からない・得しない)ものにすることが大事なのです。

世論としては「戦争反対」の風潮が近年では盛んになっています。
政府への戦争支持が無いにも係わらず、戦争は繰り返されています。
国民の支持を集めるために、理由を捏造し戦争。
某合衆国の「対テロ戦争」などはいい例だと思います。
愛国心を煽り、正義感を煽り、戦争の正当化。
何が正義で何が悪か、それらを明確にする為の情報操作による洗脳。

『戦争とは正義と悪のラインを引く為の壮大な労働だ』By Katoh The Japan

正義と悪のラインを明確にしてしまうと、世論は正義のほうに肩入れしてしまいます。
戦争を天の制裁として正当化してしまうのです。
一部の情報操作に敏感な人達はこれに惑わされることなく
「反戦」を真に掲げることができていますけどね。

正義と悪とは「対する相手」がいて初めて意識されるもの。
私は正義でもありませんが悪でもありません。
只、誰ぞかが私に対して嫌悪感を抱けば
私はその瞬間「悪」となるのです。

そこで皆が意識して正義と悪を曖昧にすることが戦争放棄の手段になるのではないか、
と私は考えています。

戦争を倫理観で防ぐこともできると思っていますよ。私は。
全ての人間(政府関係者も含む)が垣根を打破することで、
必ず戦争というのは無くなっていきますよ。そう信じましょうよ。


今後の私の目標として

1.世界中の人間の正義と悪の固定観念を曖昧にすること。
2.経済の相互依存関係を構築して、戦争を非合理的なものにすること。

そのような組織、団体の結成が目下として、
世界統一国家を建設していきたいと考えております。

反戦の意志が、皆の意志になることを願って。
反戦等という言葉すら死語となってしまう程の
戦争の無い、恒久の平和を信じて。

我が咆哮よ。屈する事勿れ。


Wednesday, January 11, 2006

日刊極東 第1号

辺りはもうすっかり闇へと沈んでいます。
夜です。
月光は浮雲を照らし、群青の深い闇が広大な空のキャンバスに美しいグラデーションを描く。
まるで次に上る太陽へのお膳立てをしているよう。

鬼火がちらちら、狐火がめらめら。
迎えに来てくれたのかい?
まだちょっと早いよ。
もうちょっとだけやることがあるんでね。
すまないね。
先にお休みよ。

虚空を見上げれば、疎らに見えるは無数の星。
瞬きはまるで、私に何か朧気に訴えかけるようにコントラストの強弱をつける。
「お休みなさい」と訴えかけているのか。
将又「活動せよ」なのか。
闇と輝きはどこまで続いているのだろうか。
それは私の味方だろうか、敵だろうか。

空は戯言を飲み込んでくれる。
凍竜の如き寂しさを紛らわせてくれる。
烈火の如き怒りを静めてくれる。
静寂の中、深夜の月は暁月夜とはまた違う佇まいなのがまるで生き物のよう。
人格というか性格というか。
雰囲気一つで表情を変える、しかしそれは常に優しい。
なんともジェントルマンでね。羨ましいね。

可惜夜を感じつつも、太陽の昇るのもまた待ち遠しい。
明日も陽が昇るだろうか。
明日は前が向けるだろうか。
明日は人に優しくできるだろうか。
罵倒してしまわないだろうか。
足踏みしてしまわないだろうか。
勘違いさせてしまわないだろうか。
私の発言の真意は誰にも伝わらないのだろうか。


さてと…

昨日、このブログのほうにコメントがありましたので皆さんで考えていきましょう。
コメントを書いたと言う事は、何かしらの覚悟ができているのでしょうから。
このコメントは世界中の人たちが見ますよ。
世界各国のありとあらゆる人達は、
このコメントをどのような気持ちで(翻訳して)読んでいるのでしょうね。

はい。まずは、

 一般的にいうとあなたは自意識過剰で勘違い野郎!

といきなりアクセル全開、と言った感じですねぇ。
いいねいいね〜。

 ぴったりの表現ではなかろうか・・・

確かに。ピッタリかも〜。
皆、どこかで自意識過剰なのだと思いますよ。
皆、何かしらに勘違いを起こしていると思いますよ。
例えば誰も望んでいないのに、自分の得意分野(例えば動物占いとか)の話とかを
懇々と1時間以上演説する、みたいなことも完全に自意識過剰の類ですよね。ん?どう?
私はそれ自体は悪いとは思っていないので、
今後もそういったことを続けてもいいのではないかなぁと。
そもそも生きようとしてること自体が既に自意識であって、
自己主張が強いだけで自意識過剰と言われてしまっては、
世界中が自意識過剰人間だらけになってしまいますね。まぁ大変。

 しかしながら人間(僕)というものは、
 肯定的な意見をフンフンと気持ちよく聞いてはいるものの
 逆にのちのちの不安や焦燥に駆られる事もしばしばあります。

私もそうです。
どのような意見であってもフンフンと聞き入れていますが、
その後その意見と全く相反する感情に苛まれたりしてしまいます。

 「君は最高だ!悪い所がひとつも無い!」的な言葉をかけられたら、
 嬉しさ半分「ホンマ!!?」(疑)半分となります。

なりますねぇ。
疑惑を持ってしまいますねぇ。
何故なのでしょうね。
疑惑なんて持ちたくないと思っていても、そこまでの自身が自分に無いが故に
賞賛に対して漠然としない、腑に落ちない、そんな感情が生まれてしまうのでしょうね。

 ワンマン社長に上司がいない為にうつ病!という状態でしょうか。

自信満々のところすいません…
これはよく意味が分かりません。

 逆に否定的な意見に安心し、自己確認をしているのでは・・・
 という考えもあります。

ん?なになに?実に興味深い。
聞かせて聞かせて。

 というのは、反論されることによって自分が善or悪
 もしくは多数派or少数派の認識をしているようです。

そうですね。
反論されることが最も手っ取り早くそれらを認識できるでしょうね。
只、そればかりが認識の手段ではありませんよ。
自分が衝撃を受けるような出来事に『遭遇』、もしくは『触れ合う』ことで、
自発的にそれらを認識することも勿論可能です。
衝動的な働きかけばかりでは思考は偏りがちになることが多いのです。

 そのウラには
 「自分は社会に貢献できるのだろうか?」や
 「りっぱな大人になれるのだろうか?」
 などの手ごたえを欲しているのでしょうか。

なるほどね。
そこからここに発展するか。
うんうん。

 私はその感情について「社会的地位への不安が大きい」と感じます。
 誰よりも普通で常識人になりたいと願う変態。
 できないから望む。でもできない・・・よって不安。

つまり『普通になりたい』ということなのですかね。
私もそういうときあります。
アダルトビデオをレンタルするときに、
男性店員と女性店員が別々にレジを担当している中、
わざわざ女性店員のほうに並んでしまったりしています。
『普通』は男のほうに並ぶっしょ。てこと?
あ、そういう事じゃない。あ、そう。
つまりは何?
『自分が受け入れられていない』と言うことを認めているってことですかね。
噛み砕いて言うと
「自分は受け入れられていないから、普通になり、受け入れてもらいたい」
というところかしら。よく解りません。
社会に貢献するって、受け入れられるってことですものね。
大人になるって、集団に適応するってことですものね。
己が普通ではない、との認識があった上で最初の

『一般的にいうとあなたは自意識過剰で勘違い野郎!』
『ぴったりの表現ではなかろうか・・・』

があるとするならば何を根拠に言っているのでしょうかね。
ぴったりとは誰が認定したのでしょうかね。
普通代表の方に伺ったのでしょうかねぇ。

「一般的に」と「ぴったり」と言う言葉がキーワードですね。
その2つの言葉を、コメントを書いた貴方が放ったとするならば、
「一般的」な表現を、貴方自身が「ぴったり」と判断できる。
それ即ちあなたが一般的な思考の持ち主と言うことになりますよ。
つまり「普通」になれていますよ。十分に。
おめでとう。

もしもそれらの表現が推測だけで構成されているとするならば、
その言葉が人を傷つけたり、悲しませたりする代償を
どうやって購うつもりなのでしょうか。

長くなりそうなので次いきます。

 私もたまに(年に1回ぐらい)自分に対して正直になる時がありますが、
 一瞬泣きます。

ふんふん。それから?

 14歳のときに「こんな大人になる!」という未来像を思い出しては、
 今のブヨブヨの自分を見て「こんなはずじゃなかっただろう・・・」(悔し泣き)
 てなもんですよ。

解る。痛いほどよく解る。
私の幼少期、あのころ描いていた自分とはいったいどんなだったろうか。
明確なビジョンは無かったのかもしれません。
あんまし覚えていませんが、当時の私が今の私を見たらなんて言うでしょうかね。
ガッカリしてしまうかもしれませんね。

 ただし、一瞬だけ泣きます。
 なぜかっていうと少しだけ大人になったからです。
 いきなり号泣するとおかしいと思われてしまうからね。
 だから、泣きたいのを我慢して一瞬にとどめるんです。

我慢しなくたっていいのではないでしょうか。
ただ泣いているという人間全てに、
「あいつガキか」
という人間のほうが子供だと思いますよ。
泣きたいときに素直に泣ける
笑いたいときに素直に笑える
怒りたいときに素直に怒れる
もちろん時と場合によりますが(会議中に笑ったりとかしたら駄目よ)
上手く喜怒哀楽を表現できる人間も大人ですよ。

と、ここまでですね。
私がここで書いた言葉は、コメントを下さった個人に対して放ったものではありません。
皆さんも自分に置き換えて感じてほしいと思っています。


総合的に感想ですが
『理解できる』
が今回の感想です。


と言うように、何かコメントを残してくれた方には
『同じリングに上がってもらう』と言うようなことを実践してみました。
只、これに対して同じ人間がコメントをしてきても
もうリングには上げません。
1回こっきりです。
1回に全力を投入してください。

只、先に断っておくと、
こうやってコメントの対応ばかりしていると
普段書いているようなことが書けなくなってくるので
書くときは吟味して書いてくださいね。

面倒くさくなったらコメント消すぞ!オラ!容赦なく!





Tuesday, January 10, 2006

天叢雲剣 vs エクスカリバー

爪を噛む。
そういった癖は私にはない。
只、そういった心境。

私には尊敬する人物が大勢います。
親族や友人、マスメディアなどに出ている一部の人、作家等々…。
いろんな人間に影響されて生きています。
流行言葉で言うなら『リスペクト』している、とでも言いましょうか。

中でも最も身近に尊敬できる人間は友人達ですね。
私の心境に様々な変化をもたらせてくれます。
皆の成長を目の当たりにすると、尊敬と共に僅かに寂しさを覚えます。

私の友人の一人が言っておりました。
「皆に先を越され、自分だけが取り残されたような感情になる」と。
私も同じ心境です。

疎外感と焦燥感の重なり合いが、
只ひたすら、己を追い詰めていくのです。
ひたすら追い詰められても、背後には壁がない。
無限に堕ちていくのみ。
堕落。

私は皆の成長、進化について行くどころか、未だ同じリングに立ててもいない。
戦うことすら許されず、勝つどころか負けることすら許されていない。
焦りを感じます。
憤りを感じます。

恐らく私は逃げてしまったのかもしれません。
同じフィールドでは相手にもされない、と妥協、断念し、
逃避の末にフィールドを変えてしまっただけなのかもしれない。

悔しいね。

そして爪を噛む。そんな癖はないけど。
くそったれが。

と、ネガティブな事ばかり言ってたってあかんでしょ。
思想とは常に前向き、建設的で在るべきだと思います。

己が信じているものに自身があれば、その道を驀進して然るべき。
たとえその道を阻む強大な壁があろうとも。
その戦いの場所に敵がいようがいまいが。
たとえシャドーボクシングであろうがマスターベーションであろうが。
私は自信がありますよ。

しかしながら皆の成長の凄まじさには驚愕しますね。
速い。
私が歩いているとするならば、皆は新快速列車くらいありますね。
しかし私もフィールドを変えれば新快速、いや特急雷鳥くらいあるはず。


心は空空寂寂。
体は矛盾冷覚。
眼は万物の全てを見定め、
口は天秤を粉砕する。
後のこの世に残るるものは、
無であり有であり全である。
聖剣は既に抜かれ、
諸君の首元に突きつけられている。
返事を求めている。
対応を伺っている。


最後に、私を評価する全てのものへ。

私は評価を望んでいない。
皆の解放を望んでいる。
しかし貴方の目が私を評価するならば、そう映るならば拠所無い。
只、私の知りたいのは、
評価した後、私をどうしたいのか。
殺すのか?手中に収めるのか?
望みが知りたい。
私を解析し解剖し、その後が知りたい。
組み立て直してくれるのか?
貴方のそのレールに私を乗せてくれるのか?
私は望まない。諸君は何を望む?

万物全てが抱く思想は結局は比較される。評価されてしまう。
無駄ではありませんよ。評価は。
自分がどう思うかを明確に提言している、という点ではね。
自己主張ができているのですからね。

しかしそれが全てだと思ってしまっては「井の中の蛙」。

その評価はいつぞや覆されてしまうでしょう。
全ての解放と共に。世界の覚醒と共に。

取り残されないために、
取り残す人間を生まないために、
己を先ず見てください。
あなた達皆が、そうなり得る危険がある。


Monday, January 09, 2006

排他の力学

お正月気分終わり。
祭りの後と言うに相応しい情緒や寂しさと、
スウィッチを切り替えた瞬間の、身体の周りを颯爽と駆け抜ける凍える疾風が
コミュニケーションをとれないまま、牽制しあう。
なんとも面映ゆいと言うか、切ないというか不思議な感覚に陥りますね。

私、長い休みというのは極端なくらいアドレナリンが分泌するもので、
その休みが終わっても暫くの間は惰性でアドレナリン分泌状態が続くのです。
お陰様で何だか妙に元気。
あんまし寝ていないのですが、身体がフル稼働状態を保てています。
休暇がリフレッシュになるというのはこういう事なのだろうなぁなんて。
このまま1年間、惰性のエネルギーも上手く運用しながら活動していきたいものです。

そんなこんなで今年もBlogを書いていこうと思っているのですが、
なぜ「Blog」なのでしょうか?
別に他の媒体でもいいんじゃないの?なんてな事を人は言います。
そうなのです。
別に何だっていいのです。

日記であれば日記帳に書けばいい。
言いたいことがあるなら、本やCDでだって言える。
そりゃそのとうり。
なのに何故。

私はBlogを書き始めた当初、
「己への再確認を行うため」に何かを不特定多数の人間に宣言することで
己を追い詰め、無理から自分を見つめ直していこう、と言うようなことを考えていました。
もちろん今でもその気持ちは変わっていないのですが、
ちょっとだけ他の目的意識が芽生え始めているのも現実。

最初は自己再構築が99%の割合を占めていたのですが、
今は「手遅れになる前に、皆に伝えておかなければならない」という意識が
日を重ねる毎に次第に大きくなってきているように思います。

それらを踏まえれば1つの理由がでてきましたね。
『Blogであれば、世界中の不特定多数の人間が閲覧する』

だったら出版物やCDでもいいんでないか。
それがあかんのです。
それらは売り物だからです。商売のいち手段だからです。
もちろん売らなくては採算が合わないから売るのですが、
購入しなければ閲覧することも聴くこともできないというのが、
なんとも非効率。

マーケティングも複雑ですよね。
顧客ニーズや販売経路、市場開発といったような
つまりは需要と供給に反していれば、販売することすら許されない。
販売したとしても購入してもらえない。
そんなことが起こり得る。

また、そういった段階を踏まねば販売できないという
タイムラグが生まれてしまいます。
リアルタイムでの発信が困難なのです。

そこでまた1つの理由が生まれました。
『お手軽にリアルタイムで警告を発信することができる』
基本的、且つ初歩的なWebの特性ですよね。

と、自己正当論をひたすら書いておりますが、
別に書きたくない人は書かなくてもいいと思っていますよ。

目的を何においているかで、やることというのは必ず変わってきますからね。
大事なのは、その目的に到達する為には、どの手段が最も適しているかを
しっかり見極めることだと思います。
その手段は失敗するときもあるやもしれません。
その時は正したらいいじゃないですか。
ビビって萎縮していては何も始まらないし、何も見えませんよ。

ただ、新しい媒体を受け入れられなくなってくると、
己の頭の堅さ、老い、世界観の狭さを痛感してしまいますよね。
脳味噌やらかく。

さて、そんなこんなで酒でもやろうかしら。
今夜は泡盛と頂き物の野沢菜で決まり。
うまそ。


新人類よ。
道が見えるかい?

Thursday, January 05, 2006

2006年、賽は投げられた

あけましておめでとうございます。
皆様、年末年始は如何お過ごしでしたでしょうか?
笑い、泣き、叫び、戦いたことと思います。

私はと言うと、自分との戦いでした。

己の驀進は正しいベクトルに向いているのだろうか?
気付けば、とんでもない方向に向かって歩いていってしまっているのではないのか?
そう思わせるような年末年始。

皆さんは理想の自分像というのをお持ちでしょうか?
もし持っているならば、それに向かって躍進する自分を阻まんとする障害を如何にして対処するでしょうか。

私は己のやっていることを極端に否定されると、嫌悪感というか殺意が芽生えます。
そして考えます。何故にこの人間は私を否定するのか。
私の歩む道にレールを敷きたいのか。
私の歩む道を妨害したいのか。
私を殺すつもりなのか。
最終的に理解の範囲を超えているので、その時点ではあまり気にも留めないのですが、
その腑に落ちない感情が、絶えず私の邪魔をするのです。

否定されたくない、強要されたくない。
そのような感情が少なからず皆さんの中にも在るのではないでしょうか?
私はありますよ。
殺されるくらいなら、殺してやります。

『あなたは隣にいるその人を、どうしたいの?』By Katoh The 2006

この言葉を聞いて皆さんはどう思いますか?
あなたが今一番に思い浮かべる人間に対して、その人をどうしたいと思っていますか?
考えてみてください。今年中。絶えず。

そして年末年始に於いて2005年までの己を総括していたのですが、
『軽率』な人間なのではないかと感じたのです。

他人には『なんて軽率な人間なのか』と散々絶句したりするのですが、
案外軽率な人間がここにも一人。私です。
安直に何も考えず行動していることが在るもんですよね。

何か他人を巻き込んでの行動を発起するときは、それなりの覚悟を持って行動せねばならぬ。
何か発言をするときは、その発言に対し、責任を持てなければならぬ。

例えば他人に何かアドバイスをしてみるとします。
そのときに、何かのプランがあり、目標があり、全てが明確に宣言できるようであれば、
それはアドバイスとして成り立つのでしょうが、
『〜してみたらいいやん』とか、アバウトな部分を持っているアドバイスであれば、
それは何の意味も成さない。寧ろ、怒りや憎しみを買うことになったり、
恨み辛みとして跳ね返ってくることもあるでしょう。
何も言わないほうがマシと言うものです。

日常生活による価値観の麻痺。
それが『軽率さ』を生み出す根元。

生活で堕落すればする程、私は軽率さを増してしまいます。
甘えた生活態度が性根を腐らせていくのです。

そこで2006年。
「ちゃんとする」って誰かが昔言っていたのを思い出します。
そのときは笑い飛ばしてしまっていたのですが、よくよく考えれば深い言葉ですよね。
ちゃんとするとは言え、皆様できておりますか?
皆さん個々に「ちゃんとしている自分像」をお持ちでしょうか?
それと自分を見比べた時に、さていかが?
自分の「ちゃんと」っていったい何?
私は何にも「ちゃんと」達観せぬ儘に生きさせられてしまっているようです。
まだまだ自分では生きていない。
生きさせられてしまっている。
私の「ちゃんとする」は、自分で生きることです。

と言うことで2006年の豊富は「ちゃんとする」。
私も25歳。後厄。
四半世紀の歴史は今、葬り去られました。
ここからです。
ここから。


生知安行為せずが人ぞ
聞こゆる声は大軽率鳥の
発する声は未だ聞こえず
舌の剣は命を絶つ


2006年もよろしくお願いいたします。