極東最前線

Tuesday, November 29, 2005

地下シェルターを求めて

難儀なことばかり言っていますか?
融通の利かない、下世話な事ばかり言っていますか?
緩怠は憤懣を以て己を映す鏡として。
映る姿は阿修羅。又、阿羅漢。
忍び難きを忍び、耐え難きを耐え、私は尚も忍辱。
私は漢字にルビはふらない主義です。寧ろ打ち方なんて知りません。

夕刻に友人より電話が入りました。
「あ、極東さんですか?」
む。極東さんとな?キョクトウさん?私はカトウさん。
帝都大戦のカトウさん。サクラ大戦の帝撃。
最高ですか!?
斉藤です。
いや、極東です。
「いいえ、人違いです。」
そう言いたかった。逃げ出したい衝動。
何故私の友人がこのBlogの存在を知っているのでありましょうか?
言ったっけかな。
酩酊した勢いで言ってしまったかしらん?ふふふ。

『冥鑑、未だ我を見逃す事ぞ不知』By Katoh From Hell

暗々裏で自分の事が動いていていると、突然どうしようもないくらいの焦燥感に苛まれます。
何かあるんじゃねぇか?黙ってる場合じゃねぇんじゃねぇか?
誰かに見られてるんじゃねぇか?
殺されるんじゃねぇか?なんて。

やれんね。

私は、電車のホームで電車を待つ際、なるべく白線のずっと内側、
電車が通過する付近から最も離れて電車を待つ事にしています。
ホームのかなり真ん中側。
しかも自分の背後には看板や柱など、刺客を後ろに回り込ませないようにしています。
何かの間違いで一番先頭になってしまったり等したら、
敢えてキヨスクなどに行き、読みたくもない大スポを買ったりして、
また列の最後尾に並び直します。
猥褻頁に気を付けろ。

危機管理能力を持って生活しようと心がけているのです。
危機察知能力を高める鍛錬とでもいいましょうか?
いつ何時誰ぞかが私の殺害を目的として、若しくは
飛びっきりの愉快犯が私を蜂の巣にしに来るやも知らん、とハラハラしております。

視野を広くする鍛錬。
瞬きをしない鍛錬。
水分を摂取しない鍛錬。
息をしない鍛錬。
どれもこれも過酷です。
いつも挫けそうになりながら街を歩いております。
「今日は家まで瞬きをせんと帰れたぞ。いひひ。」

街行く人間を皆敵と想定した、仮想戦場。
こうきたら、こう避ける。
災害を想定した、仮想大災害。
今地震が起きたら、あすこに逃げ込む。
あすこからここまでは丁度50歩だ。
彗星、若しくは原爆が落ちてきたらどうしよう。
地下シェルターだ。地下シェルターを買わねばならぬ。
と言う事で何はともあれ金が必要だ。金金金。
地下シェルターってお幾らぐらいするのでしょうか?
賃貸で安くしてくれないかしら。地下だし。日当たりも悪いし。
ウィークリーシェルターとかあってもいいのではないですか?
敷金礼金無しのシェルター。洗濯機付き。
それで、何もしなくても3年くらいシェルターに籠もって居られるくらいの食料と、
あとインターネットの線を引いて、下着を何枚か入れておこう。携帯電話の充電器も忘れずに。
地下って電波あるのですか?
ホワイティ梅田はある。電波。だからシェルターもある。電波。
売ってくれよ。
売ってくれって。
折り込み広告とか頻繁に新聞に挟んでくれよ。
頼むよ。危なねぇんだよ。
おっかねぇんだよ。シェルターのねぇ生活なんて。
安住の場所を求めて『安住!安住!』なんて叫びながら街を闊歩してみませう。
鈴木杏樹が振り向きました。

等、シミュレーションを重ねて鍛錬しております。

なので、私が知る由もない極秘裏で何かが起ころうとしていると、強烈な恐怖な訳です。
丸腰っておっかねぇ。

結局Blogの出元は予想だにしないところだった訳なので安心いたしました。
そんな日常のお話。

ここで一句。

野狐禅と
思しき肩の
重みかな

   ⓒK.Katoh(2005)


弱い犬ほどよく吠える。
弱い犬野郎ほどよく武装する。
究極のビビリ、ヘタレ。
そんな極東さんなのでした。

Sunday, November 27, 2005

酩酊、爆撃と共に

さて、今夜はスーパーで買った刺身と泡盛でちびちびやってる訳で。
いい感じになってきたので調子いいですよ。ここからやで。私は。

さてさて私はお酒が大好き、と言うよりもライフワークの一つとして位置づけているのですが、
皆さん呑んでますか?酒という名の憤り。

私の周りにも『お酒好き』と言われる人間はたくさん居ます。
質の悪い人間も勿論おりますが、基本的にはハッピーな人間で溢れています。
いつもは殺伐としていた人間も
お酒の場、お酒の力にかまけて、必要以上にはしゃいだりしますよね。
私は正直、酒に酔っぱらっている人間と言うのは大好きです。
変な壁とか建前とか無くなりますものね。
只、酔っぱらってる人間と言っても面倒くさい人間と言うのはアンチです。
変に「俺ってば昔は筋金入りのワルでさぁ、女子供見たら無条件に殴っちゃてたのよねぇ」とか言う輩。
「俺、もう29だけど、今お前と同い年の娘と付き合ってんのよ。」とか、
「俺って駄目な奴だろぉ。何でこんなんになっちまったんだろうなぁ。」とか言って泣く奴。
別に聞いてもいねぇ、興味も湧かねぇ。
てんで、だからどうした、と。それを言って私の中で君に対して最低のレッテルを貼り、
否、寧ろ皆貼よ。

自分の悪態を棚に上げて、他人に自慢するってどうでしょう?
愚の骨頂もいいとこです。

お酒って怖いですよね。
ついつい調子に乗ってしまう。
饒舌になるのは結構、只、挙げ句に言わなくてもいい事の羅列。
毎回同じ。ウンザリしますよね。
私にも同じ事が言えるのですが…。
お酒の席で言った事を、家に帰ってから後悔するのです。
大概にしてくれよ。私、俺。

否、いいんですよ。
相手がどれだけビッグな(リトルな)口を叩こうが、私さえ気にしなければいいのですから。
しかしまだまだですね。
苛々します。

皆さんもありますよねぇ。
酔っぱらってる人間を見ると苛々しますよね。
しますよね。しますよね。
しますよね。

しかし、楽しいですよ。お酒って。
世界中の皆が、ヘラヘラとしていたら楽しいですよね。
私も含め、もっともっとヘラヘラしてくれたらいいのですけどね。
極限の酩酊。
そうであれば私も皆を容易に受け入れる事が出来るのではないでしょうか?
皆も私を簡易的なノリで受け入れてくれるのではないでしょうか?

お刺身も食い尽くしてしまって、今はおでんでちびちびやっています。
うまいですよね。おでんって。


最後に一句。


酩酊し
人に酔うなと
又一歩

ⓒK.Katoh(2005)


酔ってもいいが、なめるなよ。




Saturday, November 26, 2005

歯車に

人生とはコミュニケーションである。

なんて哲学的な言葉から入る今夜の極東最前線。
別段深い意味合いはないです。
只単にコミュニケーション能力が欲しいっていう願望を偉そうに言ってみただけです。

しかしながら、コミュニケーションって大事だなぁなんて感じる昨今。
他人と会話する事は、様々な内容、感情の産物ですよ。全く。
自分に利益を生むために、あれこれ策を練る。
保守、布石、恍惚、策略と、十人十色、千差万別の策が生まれてくる事と思います。
人は褒め殺しを以てコミュニケーションと言い、
またある人は罵倒、社会的格差を以てコミュニケーションと言い、
またある人は、祈りを以て心のコミュニケーションを図り、
またある人は、上下関係という浅はかな束縛に囚われず、己の感ずるが儘にコミュニケーションを図るでしょう。

私は人と会話等をしていると、純粋に『楽しいなぁ』と思って時間も小便に行くのも忘れてしまいます。
罵倒や陵辱を浴びたとしても
「この人は私の事をこんな風に思っているのか。未だ未だ伝わってないのだねぇ。」
なんて事を思いながら、己のコミュニケーション能力のなさを恥じ、
社会勉強なのだよ、是も。といつ何時にある同じシチュエーションに向けて
家に帰ってからバーチャルコミュニケーションをひたすら行います。心の中で。
対策を立てて次に同じ過ちを繰り返さぬように、と。

自分と異なった価値観を持った人間の放つ言葉というのは強烈です。
その人が何気なく放った言葉が衝撃的なインパクトと共に
私の胸に突き刺さる、若しくはトラウマとなる事が屡々あります。
勿論その人間には悪気は微塵も感じられず、
只単に私の被害妄想、多感であるが故の障害に過ぎないのかもしれません。

しかし貴重だとも思っております。
コミュニケーションをとらず、自分の殻に閉じこもっていたら、
到底感ずる事の出来なかったようなインパクトに遭遇できるのですから。
とても勉強になります。
「こういう人もいるのだなぁ」
と参考になります。今後の己の在り方云々の。

コミュニケーションをとる場所、つまりはコミュニティーがどういった環境か、
というのも楽しめるかそうでないかの一つの解りやすい空間です。
アソシエーション的な場所であれば、同じ思想、目標を共有しているので、
楽しめる、若しくは楽しむために必要な要素を常に持ち続ける事が
己のモチベーション次第では可能となってくるでしょう。
アイデンティティーの共鳴とでも言いましょうか。
只、ディベート、十王の御前ともなれば話は別で、
緊張と支配欲、怒りと断獄への恐怖心で、とてもではないですが
楽しむ事などとは無縁、コミュニケーションがどうだとか言ってられないですよね。
生きるか死ぬか。
壮大なテーマの元、如何に相手を丸め込むか。
営業職やペテン師(これらはイコールではないですよ。悪しからず。)等という商売は
本当に難しい商売だと思います。
コミュニケーションが仕事ですからね。
私なら割と直ぐに弱音を吐いて朽ちるでしょうね。
尊敬します。

コミュニケーションを取らない考え方の一つとして、
アイソレーショニズムという考え方も一つの存在証明論なのでしょうけれども、
私はやっぱり皆と楽しく関係していたいと思っております。

コミュニケーションの形はいろいろあるでしょうけども、
人と人との関わり合いというのはどの形にも付きまとってきます。
しわ寄せが生じる事も多いと思います。
只、そのしわ寄せを皆でピンっと張って補う事が出来れば、
必ずしや皆さんにとっても私にとっても安堵の将来があることでしょう。
イコールパートナーシップの精神で会話しましょうよ。

 無くて生きれる事もなく
 有ったら有ったで嘆きの火種
 されど欲するコミュニケーション


皆さんに一つ提案です。
明日、一番初めに会話する人には笑顔で接してみませんか?
必ずその関係はプラスのベクトルに向いていくと思いますよ。




Wednesday, November 23, 2005

鬱勃、慨嘆、銃の響き

乾涸らび藻掻き尚喧噪
戯れる声にも耳を閉じ
不埒な眼だけは疎ましげ
時の過ぎゆく此の様を
見れぬは仏、見るは犬
徒労の果てに行き着く先は
地獄か将又桃源か
其処にはいったい何がある
其処にはまったく何もない
解せるは己の心のみ


情熱が萎える。
そういった事、皆さんにもあるのではないでしょうか?

己の没頭していたもの、己の生き甲斐だったものが突然己の敵と化す。
味方だと信じていたものに、突然寝首を掻かれる。
挙げ句は侮辱、陵辱の嵐。
こちらも負けじと罵倒。
怠い、しち面倒くさい。
の様な事があるのではないでしょうか?

私は一度情熱が萎えてしまうと、それを回復するのにその情熱に費やした労力の
数十倍、数百倍の労力を要してしまいます。
つまりは回復しない。
マイナスのベクトルに怒濤のように猪突猛進します。
堕ちていくのです。

「あんなに熱中していたものが、こんなにも疎ましくなるのか。」
そういった具合で周りに接してしまうので、
周りも私を疎ましく思ってしまう始末。
迫害。孤独。不安。
様々な感情が入り交じり、気が狂いそうになります。

そういったとき、これまでの私であれば開き直ったり逆ギレしたりと
基本的には怒りのパワーで押し切っておりました。
「解った解った。もう好きにしてくれ。」と。
何とも器がリトル。
そして逃避。去り際、捨てゼリフが
「箱庭で一生暮らしてろ」
案外決まる。神経にきますよね。
反省しております。

しかし、どうしても私の事をいけ好かない人間と接すると、
それを機に、金輪際こちらの方から接さなくなったりしてしまうのです。
傘下に置きたい、手中に納めたい、言う事を聞かせたいなどの感情が私には全く起きないので、
自然に気持ちが其処からフェードアウトしていってしまいます。

万人と理解し合いたい筈にも係わらず、自分の意志が屈しそうになるとその場から離れ、
体勢を立て直し、次のフィールドで一から出直し。
そんな事を繰り返しているような気がします。

情熱が萎えると、このような悪影響が自分自身の中に蓄積されていきます。
憤り、苛立ちが募り、グダグダに落ち込んではリセット。
頭悪いですよね。

いい塩梅にはいかねぇなぁ…なんて思いながら、
最高で最強の策を模索しているのですが、そこは未だ未だ若輩者。
ポンポンポンと人生はステップアップできないものですね。
行き詰まる。歯痒い。

 人生日々是跋渉
 立ち振る舞いを見よ
 其処に自業自縛たる所以が  By Katoh The Stripper

行く先々で私は又此の感情を体験するのでしょうか。
辟易します。己の無能さに。
学習しましょうよ。

過ちて改めざる是過ち也

今尚、情熱を回復するのが良いのか次のフィールドか、
どちらが良いのか等という疑問に対しての答えは出ておりません。
時と場合によるのかもしれません。
臨機応変に生きられたら、どれ程視野が広がる事でしょう。

只、私の役割、存在意義は現状には無い。
成すべき道、果たすべき使命への驀進が目下の目標。
必ずしや果たして見せようぞ。

道は選ばない。

Tuesday, November 22, 2005

ワルツ

畜生。この鬼畜め。餓鬼め。なめんなよ。木瓜。滓。
とか何とか言いながら、人をベチャベチャと車で
轢き倒す。
しかもダンプカーで。
フロントガラスは真っ赤。所々に肉。
アクセルを踏んでも、地面に引っ付いた肉でタイヤが空回りする。ブリブリリ。
畜生、畜生。うきゃあ。
お前もか。お前もか。
と只ひたすら薙ぎ倒す。
粛清、粛清。おんどりゃあ。
と縦横無尽に血生臭い通りを走り抜ける。
臓物をオブジェに車内に置いてみて臭いから捨てたりなんかして。
轢く人間も居なくなってきて、車を降りて、臭い。
腕がいっぱい落ちてたんで、コブラの形態模写をしてみたりなんかして、
ズキューン、ズキューンなんて。イカスやん。様になってるやん。
頭半分頭蓋骨剥き出しとかお洒落でね。真似できんね。あんたやりすぎだよ。
説教してやる。こら、剥き出すな。木瓜。禿。髑髏。
通りは真赤々。血、かね。これは。
轢く人間も居なくなって、缶珈琲でも飲みたくなって、
自動販売機でもないものかね。ここらには。
コカ・コーラ・ボトラーズの自動販売機しかないのかね。ここらには。
あら、血で赤い自動販売機に見えてただけね。こいつは一興。
てんで、缶珈琲でも飲まうかね。てふてふ。ぐびぐびび。
しかしぬちゃぬちゃしてて歩きにくくてしょうがねぇや。邪魔な肉。余分な贅肉。
ダイエットじゃとか何とか言いながら、またダンプカーで爆走してね。
そこらじゅう行ったよ。人が居るところには全て。
海外にでも行って粛清じゃ、とか言ってたら、日本には俺一人になっちゃって、
船も出せねぇ、飛行機も飛ばねぇ。ってんで
しゃあねぇな。電車だ。電車でいろんなとこ行こう。とか何とか。
「駅はどこですか?」なんて、落ちてる頭とかに聞いてみて、
「知りません」なんて、自分で言ってみたり。カッカッカ。結構結構。
喋んないって。頭しかねぇもん。てことで、胴体とか、腕とか、
取り敢えず人体を生成する物体をそこらから寄せ集めてきて、人を作りましょ。
「あんたA型だからだめよ」「あんたRH-だからだめよ」とかいちゃもんつけては
契ったり付けたり。あはは。
神様ってのはこんな感覚かしらん。ふふふ。なんて。俺って人間よ。知ってた?
んで、電車に乗りたいんだって。俺わ。乗っては気ままな旅に出たいんだって。俺わ。
駅弁とか喰いながら、外の雪景色とか見ながら、次はどの温泉に入ろうかしらん。とか。
いいではないですか。セレブではないですか。
一通り人体が生成出来たので、もう一度問う。
「駅はどこですか?」なんて、喋んないって。だから。無駄だって。畜生。ふざけるな。
で腹が立って腹も減ったので、腕とか喰ってやった訳ですが、何たって不味い。
不味すぎて吐き気がするのを缶珈琲で潤し、取り敢えず腕は不味いって事が解ったので、
次は太股だよ。手羽先だよ。手羽先ってどこの部分だっけか?知らね。
ってんで、喰ったけど不味い。不味いのはお前が悪い。血が臭い。お前が悪い。
不摂生が祟っておるのですよ。野菜を食え。野菜を。
畜生。どいつもこいつもなめやがって。怒
怒。
そう言うことで、そこら中の頭とか胃袋とか蹴飛ばしてやったんですが、
スニーカーにへばりついて気色悪い。畜生。胃袋さん、いかがお過ごしですか?
いやはや、胃潰瘍ですか。いやいや、これは私が蹴飛ばして開けた穴ですよ。
またまたそんなご冗談を。いやんいやん。そんな繰り返し。
誰も居ない血の海。臓物の海。
そこら中にある腸やらの臓器を手に、感慨深く、なってみてる表情を自分で作ってみよう。
ん〜。それは〜。ん〜。その〜。何ともはや〜。とか何とか言ってみたけど
いま一番気なってることは、この手の臓物と空き缶をどうするかであって、
ゴミ箱に捨てる訳であって、もう既に路上のゴミ箱には俺が轢き散らした肉片で溢れてる訳であって、
メッシュの鉄のゴミ箱の最下層には空き缶、その上に肉、その上に俺が空き缶を捨てると、
パフェみたいになるね、てな事を考えていたりなんかすると苛々してきて、
そんなときはダンプ。ダンプっきゃないね。
いひひ、皆殺しやで。とかおっかないこと言っては、いかんいかんなんて。愚にもつかねぇ。
おりゃあ、うりゃあ。
叫んでいたけど、ちょっと泣いちゃいました。えへ。
誰か俺を殺してくれよ。頼むから。止めてくれよ。いや、やっぱやめて。殺さないで。
いや、やっぱり殺して。とか、道に落ちてるオッサンに愚痴って、挙げ句グチャって。
誰も居ねぇんだから、誰も俺を殺せないんだなって。
深い。深いよ。木下君。
て木下君なんて知り合いは居ないので、目の前、下のオッサンが木下君てことで。木下君。深いよ。
深いから、ダンプに乗るよ。ダンプに。
エンジンスタート、アクセルオン。車内に木霊する自分のボイス。
車窓から見える、赤い世界。臓物。湯気。
今なら、移植し放題ですよ。




てな事を今日は一日中考えてました。
おかげで頭はぼんやり。
他への集中力が通常の20%程しか無かったのではないでしょうか。

何故、こんなシーンが頭に巡っていたのでしょうか。
自分でも解らないのですが、肉体と精神のバランスがおかしくなっていたのでしょうか?
精神の比重が大きくなりすぎてしまって、物理的に外に発信する集中力などが落ちてしまったのでしょうか。
現に今も集中力がありません。

取り敢えず寝てリセットします。


Sunday, November 20, 2005

エース・ジョーカー

核兵器を持つ、と言うことが皆さんどういったことか解りますか?

不躾で申し訳ございません。
今日は核兵器とはどのようなものかについてのお話。

核兵器、つまりは大量破壊兵器のことを指しているのですが、
歴史は1930年代、第二次世界大戦から始まります。
勿論原子爆弾開発に積極的に取り組んでいたのはアメリカ合衆国連邦共和国なのですが、
連合国、枢軸国共に極秘裏ではありますが開発が検討されていたとあります。
本当のところは知りませんが。
アメリカが原子爆弾の開発に本腰を入れ始めたのは、
アルベルト・アインシュタインがルーズベルト大統領(当時)に送った手紙、
「ヒトラーが核開発を進めています。彼の核保有と独占がどれ程危険な事か解りますか?云々…」
と言うような内容。
これを機にアメリカ合衆国連邦共和国は秘密計画、マンハッタン計画をスタートするのです。


そしてかの有名な研究者、オッペンハイマー率いるロスアラモス研究所には、米国中から優秀な研究者を募り、計画から3年で3個の原子爆弾を完成させました。
その内1つ(ガジェット)はアラモゴードの砂漠での世界最初の核実験に、残りの2つ(リトルボーイ、ファットマン)が日本に投下され、悲劇、惨劇を生むことになるのです。

1945 年8月6日、世界で最初の濃縮ウラン型原子爆弾の実使用が広島に対して行われ、続けて1945年8月9日には長崎に対してプルトニウム型原子爆弾が投下されました。それにより両都市は一瞬のうちに壊滅、約数十万人が殺害され、30kmの範囲には黒い雨が降り注ぎ、被爆の人的被害を拡大しました。

原爆の成功に軍当局は喜んではいたものの、原爆使用の実態が明らかになってくるにつれ、世界は畏怖し、原子爆弾開発に協力した開発者からも使用反対の声が上げられるようになっていきました。

そして核保有単独を目論んでいたアメリカ合衆国連邦共和国でしたが、ソビエト連邦の核実験成功が1949年と予想以上に早く、それ以降、世界は核の均衡上の冷戦時代に突入することになるのでした。


と、言ったところが核兵器の歴史の最初です。
最初は、核兵器というものがこんなにも恐ろしい物とは思わなかったのでしょうね。
「他の国よりも強い兵器を保有したい」という一心だったのではないかと思います。
開発者達の苦労を考えると胸が辛くなります。
国からのプレッシャーと自分の行っていることが間違いではないかという葛藤。
己の作った兵器によって、大勢の人の命を奪ってしまった。
自責の念が強くあったと思います。
エノラゲイに乗っていた操縦士も、気が触れたと聞きます。
皆、良心の呵責に苦しんでいたのでしょうね。

世界のスタンスとしては、
「作ってしまった核兵器は無くしていこう。使っちゃいけないよ。」
ですよね。
核拡散防止条約や包括的核実験防止条約が意味するのはそういうことなのです。
只、核拡散防止条約は現核保有国以外への拡散を防止する条約、
つまりは、現在核を保有している国は保有自体は認められていると言う条約なのです。
都合のいい条約ですよね。

皆、保険が欲しいのでしょうね。
切り札が欲しいのでしょうね。
核のカードに守られ、強いものには巻かれ、
そうやって軍事力だけを心の支えとして、
ゆくゆくは国民全てが兵隊だとか言い出すんでしょうね。

武力でしか国益を高められないと言うこと自体が浅はかだと思いませんか?
国家レベルだけではなく、人間個人のレベルでも同じことが言えると思います。
国民全てに根付いた常識が己を縛り付けていると言うことに早く気づきましょうよ。
皆に「核を抑止する力」が備わっていると言うことに早く気づきましょうよ。

現状そうもいかないのはよくわかります。
今の私が、
「頼むから武装解除してくれよ。いい加減に。」
とアメリカに頭を下げに行ったところで、
「このファッキン・ジャップめ。朽ち果てろ。」
と言われ、耳を傾けることすらしないが関の山だと思います。
今に見てろ。

私も確かに浅はか極まりない反核論者であり、
只「やだな」と思ったから「核撤廃」を叫んでいるに過ぎないのかもしれません。
しかし、皆さんはニュースなどで「核実験成功」などの話を耳にして、
全く何も考えず、「ドラえもん」などを見てる感覚と同じように
別の世界で起きている現象として認識してしまうのですか?
本当にそうなのですか?
私はそういったニュースを目にすると、
絶大な焦燥感に苛まれます。
「何かしなきゃ」と己の力のなさを呪います。
だから私は今トレーニングの真最中なのです。
9割9分メンタルトレーニングなのですが。

皆さん個人個人が思うことによって、必ず兵器としての核は無くなっていきます。
大事なのは皆の意識の統一。
願いは強く信じれば信じるほど叶い易くなるものなのです。
傷つくのが嫌だから信じない、なんてのは逃げなのですよ。

願いましょう。核根絶を。


寒くなってきましたね。
今年こそホットカーペットを買おう。
只、そのホットカーペットも原子力発電です。てね。


Thursday, November 17, 2005

万国のプロレタリアよ団結せよ

毛沢東が虐殺した人数、5000万人。
ポルポトがカンボジアで虐殺した人数、150万人〜300万人。
ソビエト連邦解体までの70年間に粛清された人数、6200万人。
1937年〜1938年までの1年間でスターリンが虐殺した人数、2000万人。
私が数えた星の数、プライスレス。

皆さん、夢って持ち合わせていますか?
一口に『夢』と言っても、寝ているときに見るやつとかの話ではございません。
将来に対し展望することのお話です。

夢とはつまり、

 実現できるかできないか解らないが、思想、目標として持ち合わせておきながら、
 自分自身を支えるためにあるものである。

と何処かの馬の骨が説いておりました。

実現させましょうよ。
できないなんて決めつけて、慰めの為に夢を持つなんて
夢という言葉の意味を侮辱する行為そのものじゃないですか。

例えば、総理大臣に成りたいという人がいたとします。
しかしそいつの中では、
「総理大臣には成りたいけど、俺、大学とか出てねぇし、日本のことよく解ってねぇし…成れるわけねぇよなぁ。俺みたいなちっぽけな正義を振りかざして、やれ権利だ、やれ主義だとか抜かしてるボンクラに、日本を動かすなんて出来るわけねぇんだよ。でもまぁ夢だからな。そのくらいの意気込みで生きていこうって 意味だよ。例えだよ。総理大臣てのは。あはは。例え。世界が違うって。連中と俺とは。奴らから見たら俺は下衆だって。下衆でげす。ほら、すぐこんなしょうもないこととか言ってるしよ。あかんよ、俺。」
とか言うことになっているのだと思います。
夢を、自分が到達できないと決めつけてから語るのです。
スケールがでかいだけで達観の余地なし。
寂しいですよね。

私はできると思っていますよ。
心の底から。
人類の精神的融合ができると。

と、私の夢は上にも述べたとおり、人類の精神的融合なのですが、
この事を皆さんは「はぁ?」みたいな状態で感じていいる事と思います。
しかしながら考えてみてください。
喜びも苦しみもも共に分かち合う社会。
競争の無い、ただただ平穏に暮らせる保証のある社会。
地獄の苦しみを味わいたいですか?そのまま朽ち果てるとしても。
地球の裂け目で喘ぎ、死ぬことだけを受け入れて生きていきたいですか?

世の人は
「苦しみがないと人生じゃない」とか
「競争があるから社会は発展していく」とか
「自分一人が満足ならそれでいい」とか言います。
それも一概に間違っているとは言いません。それはそれです。
私の言いたいことは、それらを超越して本質的に新しい社会を築き上げていこうということ。

世の中には2つの人種がいると思います。
「常識受入型」の人間と「常識否定型」の人間です。
どちらかというと私は後者なのですが、現状としては前者の人間を受け入れざるを得ない、
そういった社会で生活しています(勿論皆さんもそうなのでしょうが…)。
正直、ジレンマを感じずにはいられません。
社会を疎ましく思ってしまったり、頭ごなしに否定してしまったりと、
マイナスのベクトルにしか進めないでいます。

常識を覆しつつ、万人を受け入れる。
そういった事を私は目指しているのです。
模索中ではございますが。

そういった意味では社会主義、共産主義といった考え方は私は好きですよ。
しかし、私はマルクス主義者ではございません。
私は、経済を基盤に平等を唱えているのではなく、
人間の精神を基盤に考えているのです。
それによって必然的に経済というもの自体が存在しなくなるのです。
その点がマルクスさんとの意見の違いですね。加藤主義です。
イデオロギーとは又違いますので注意。
暴力によってのみ共産主義革命が達成できるなんてね。
暴力があれば何だって達成できるでしょうよ。
暴力革命必然論なんて御法度です。
私は違うやり方で革命を起こしてみせる。
必ず。

ゆくゆくは、非政治団体・維新社の設立。
そのまた先は、加藤主義インターナショナルの結成。
そして人類の融合。

夢は尽きることがありません。
出来ないはずがない。
常識に囚われず、まず考えてみてください。
究極とは何かを。




教外別伝

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上。
一生を通じて六道を歩み、如何なる道も又人道である。

先日、友人に子供が産まれました。
名前もまだないとのこと。
物凄い事だなと思います。

一人の人間を育むということがどれ程大事であるか。
勿論私にはまだ子供がいないのですが、私ならば怖くて怖くてしょうがありません。
その子がどういった人間になるかも、私の腕、育て方、環境設定に委ねられているのですから。
恐怖です。
正直、自信がありません。
全うな道に誘導することができるのか?
正しい事ができるように育てることができるだろうか?
きっとそんなことばかり考えてしまうでしょう。

全うな道なんて解っていないのに。
何が正しくて何が間違っているのか、全く解ってもいないのに。

不安は誰にでもあるのだと思います。
その不安を赤子の成長と共に打破していく。
そしてまた自分も成長していく。
子供に教えられることは数限りなくあるでしょう。

人間が不安(壁)に直面したときにとる行動は大きく分けて3つあると思います。

・いろいろな策を以て壁を打破する
・壁を避けて、他の道を探す
・立ち止まる

私は立ち止まり続けてしまっているように思います。
保留し続けてここまできてしまっているように思います。
おかげで壁の向こうの世界を見ぬ儘、偏った頭になってしまいました。
夢は果てしなく打ちのめされ、
心はズタボロに襤褸雑巾のよう。
頭の中も閉鎖的で陳腐なもんです。
抜けられない。

『そして巡業は未だ未だ続く』By Katoh The CityBaby

責任感がないのでしょうね。
子供を育て抜く責任感と自信が著しく欠けている。
途中で放棄してしまいそうで…。
放棄する可能性があるからやらない。
責任もてないことはしない。
そんな私です。

その子供ができた彼を尊敬します。
単純に凄いと思います。
自分なんかには到底達することのできない場所に彼は立っているのでしょう。
羨ましく思います。
そして心より祝福の言葉を贈りたいです。
おめでとう。

赤子は何を考え、何を憂い泣き続けるのでしょうかね。
勿論感情なんて持ち合わせていないのでしょう。
只泣き、只笑う。
精神が解放されている状態とはまさにこのことなのでしょうね。
私たちは、その赤子たちの一喜一憂に左右され、そして一喜一憂します。

私も子供は好きですよ。
何より邪気が無い。
他人の子供とかと遊んでいると、私まで心が穏やかになれます。
疲れますけどね。

最後に友人へ一言。

その子供が14歳になったら私の所へ来なさい。

一流のゲリラとはどういうものかの心得講座開きます。
精神を撃破するゲリラとは、
人に危害を与えないテロリストとはどんなものかを説いてみせる。
その頃には私も38になっています。
きっと、人に何かを伝えられる伝道師となっていること夢見て。
真実の
阿羅漢となっていることを夢見て。

頑張ってる人間に向かって頑張れとか言うな!木瓜!



Sunday, November 13, 2005

アナルコ・サンディカリズム

晩秋、もの寂しい季節になってまいりました。
蕭々たる
寒蛩に耳を傾けては、独り頂き物の泡盛でちびちびやっております。
BGMは鉄アレイさんの2ndアルバム『鉄アレイⅡ』です。
強烈なメッセージにガツンときます。やられます。
酣酔気味の身体で聴くと打ちのめされてしまいます。

皆さんも一度聴いてみてください。

 何か違うだろ
 辻褄合わせと偽りと
 金が人殺し
 手にするものは砂の上 By 鉄アレイ

精神論と理論という思想的格差を超越することの困難さを教えてくれる曲ですよね。
精神的に内包していることが、そのまま思想になるかというとそうではありません。
精神+社会秩序+妥協=理論
という計算式が人々の思考の中に根付いているように思います。
どうしても精神有りの儘を思想とする訳にはいかない社会秩序(基盤)があり、
それらを受け入れざるを得ない抑圧が妥協を生む。
そして人間一人一人の思想、つまりは理論と成っていくのです。

私としては精神的に開放された状態が最も好きなのですが、
それをアナーキズムであるとか左だとか言われてしまうと困ってしまいます。
私は右でも左でもありません。

しかし極端な話ですが、アナーキズムという考え方はある意味では理想的ですよね。
国家という枠に囚われず、個々の自由というものを尊重し、個々で助け合いながら生活する。
机上の空論かもしれませんが、自由の尊重という意味では私はアナーキズム肯定派です。

いいものはいいと、厭なものは厭と思うことに何か問題がありますか?
君の弾圧を以て新たな軋轢を生むことを、私は最も嫌うのです。
だから私に強要しないで。
だから私を解析しないで。
だから私を殺さないで。

そこで突然聴きたくなったので Dead Kennedys
の『Nazi Punks - Fuck off』にBGMをチェンジ。
ナチナチナチナチナチナチナッチ〜♪
ナチスの事です。安倍なつみさんの事ではないです。
つまりはジェロ・ビアフラはナチパンが嫌いだ、と言うような曲です。
分かり易い、素敵なメッセージね。うふ。

日本のアナーキズムの代表人物として誰もが挙げるのは、かの有名な大杉栄先生。
今ここで私の大杉栄先生への熱い想いを書くと、長くなりすぎてしまうので敢えて書きませんが
決して崇拝している訳ではありません。
彼の残した形跡を只々尊敬しているのであります。
彼は「秩序
紊乱」という文章の中で

 人と人との、国と国との、絶えざる戦争。
 海に、山に、空に、轟く鉄砲。田園の荒廃。
 幾世紀かの間の幾多の膏血の累積より成る富の破壊。
 数万、数十万、もしくは数百万の若き生命の犠牲。
 これすなわち「秩序」である。
 (中略)
 
ああ、僕らはついに、生涯を通じてこの「秩序」の下に蠢動しつつ、
 その「紊乱」に従わなければならぬ。
 「秩序」は僕らの死であり、その「紊乱」は僕らの真の生である。


と説いています。
世の中にざらにある現象の一片一片を秩序とし、
己達がその秩序を紊乱、即ち乱していると。
秩序を敵とし、その紊乱を正規として彼は常に戦っていたのです。

思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そしてさらにはまた動機にも自由あれ。(大杉 栄)

よし、今日はアナーキズム・ミュージックばかりを聴く日にしてみよう。
次は Black Flag の『Rise Above』です。
らいざぼ〜うごだらいざぼ〜♪
いいね。ノってきた。
ポジティブなミュージックですからね。

 てめぇらの嫌がらせにはもうウンザリだ。
 俺たちを止めようとしているが、そんなの無駄だ。
 乗り越えろ。乗り越えてやるさ。 
By Black Flag

あ、CRASS 聴かなくちゃ。CRASS。クラス。
ナインティ・ナインティ・スリ〜♪ 恋を〜した〜♪
違う違う!それはクラス違い!それは CLASS のほうやって!
危ない危ない。

70年代終わりから80年代にかけて活動した CRASS
CRASS のユーモアと反抗心満載でありながらも知的かつ詩的な歌詞からは、
初期アナーコ・パンクにあった、あらゆる抑圧に対する激しい嫌悪と共に表現の豊かさ&奥行きを感じます。


CRASS のアナーキズムは、メンバー自分達だけで完全自給自足。
フランスに自分たちだけの村を作って暮らすほどエクストリーム。
当時のレコードは勿論自費出版。
「メッセージをより多くの人々に聴いてもらいたい」
と言うことから、1枚あたりに黒字が1円もでないほど安価で販売。寧ろ赤字。
ライブも同じ。
タダ同然の額でやっていたのです。
プロモーションビデオが是又ショッキング。
ちょっと落ち込んでしまったりします。
久々に見よう。今から。

- - - - 鑑賞中(35分) - - - -

見ました…。
相変わらず…。
落ち込むというか悩まされると言うか…。

さて、一頻り打ちのめされたところで終わります。
ポップでキャッチーな曲でも聴いて寝ます。


Friday, November 11, 2005

世界は一つ

罵倒を以て他人を嘲笑う事勿れ。
己の哀れみにも只々見過し
感情を蔑ろにする事の愚かさに
無尽蔵に己の極彩色を真の感情とする事勿れ。
情報を鵜呑みに、又は安売する事勿れ。
多数派を肯定する事勿れ。
絶対など存在しない。
私は認めない。

根本的に己に根付いた感情というのは、何時まで経っても変わらないものなのですね。
楽しめるものには心から楽しむことができ、
腹の立つ、苛立ちを起こす現象にはいつまで経っても苛立つ。
進歩がないのでしょうかね。

以前にも同じ事を書いたかもしれませんが
皆さんは、他人のことを100%理解できていますか?
隣にいる人のことを分析しズバリどのような人間であるか答えることが出来ますか?

私には未だ出来ません。

悟ってもいなければ、何かを達観したわけでもないからです。
他人の事を決めつけるときは、それなりの覚悟を以て決めつけなければ、と常に感じております。
表に出す顔だけをその人の100%と決めつける、是いかに。

「あいつはそういう奴だ」
「あんたはそれしかできない」
何を解った気になっているのでしょうか?
暢気な御託だけを並べて、生活の小さな事だけに勝ち負けを見いだすことに、
いったい何の意味があるというのでしょうか?
何を以て、優劣を判断しているのでしょうか?
己の儚さを露呈して、自分が特別な存在であるなんて勘違いは
儚さ、愚かさに拍車をかけるだけですよ。
皆も、特に私も。

視野を広げましょうよ。
世界観を広げましょうよ。
小さく成り下がってて、あなたは満足するのですか?
いや、満足ならそれでいいです。
もう何も言う事はないです。はい。

私は日々、仕事などをしている際に
「しんどいやろ?」とか
「大変やなぁ」とか言ったことを時々耳にします。

しかし、実際にしんどいと思ったことはありません。
徹夜が続いていても、別段しんどいと思ったことはありません。

だって小さな事じゃないですか。
世界では貧困に喘いでいる人間も沢山いるし、
ショッキングな現象に遭遇している人間も沢山いるのです。
仕事が忙しいくらいでは、まだまだしんどいとは言えないですよ。
言うのは烏滸がましいですよ。
真実の苦しみとは、我々の想像を絶するものですよ。

ビジョンが狭い人間を目の当たりにすると
正直嫌気がさすし、呆れます。
挑発には乗らんぞ、と。
いい加減にしてくれ、と。
競争社会が生み出す脱落者は
新たな怒りと闘争を生み出していきます。
皆さんは脱落者を生み出したいですか?
怒りや闘争、憤りの蔓延する世の中で生活していきたいですか?

私は厭です。

みんなが一つに成れればいいのに、と強く感じます。
みんなが一つの感情の元に、同じ感情を持って生活できればどんなに楽なことか。
「阿呆か。そんなんできるわけないだろ。貴様、狂人か。」
と私のことを思うかもしれませんね。
只、何故出来ないと言い切れる?
根拠は?みんなが様々な感情を持って生活していると知っているからですか?
そんなん私も知っています。
私は其れをも超越して「一つに成りたい」と今言っているのです。
共産主義とかキューバ的思考とかの話ではなく、
精神的、物理的にも一つに成りたいね、というお話。
理想です。私の。

その理想に対してとやかく言われる筋合いは無いですよ。
理想を述べることすら迫害されるようであれば、
私は二度と理想を述べることなく、感情を押し殺して生活していくでしょう。
感情を抹殺されることがどれだけ苦痛か、
皆さんも少なからず、同じような経験が有るのではないでしょうか?

それとも、私の追い求めていることが皆さんと懸け離れすぎているのでしょうか?

苛立ちを挙げればキリがありません。
疑惑は耐えることがありません。

只、一つ言えることは、
私は常に苛立ちを隠しているし、
怒りと楽しみを隠蔽していると言うこと。
未だ振りかざす期は熟していないということ。
いつか爆裂してやるから、首を洗って待っておけ。
全人類に警告。

あんたが生きるも死ぬも、あんた次第だ。


Thursday, November 10, 2005

覚醒セヨ

私は本当に目を見開いて物事を見据える事が出来ているのか。
時々不安になります。

何も解っていない只の若造なのは確かです。
目を見開くと言うこともどう言うことなのか未だにハッキリ解っておりません。
現実を見ろと。
本質を見ろと。
只、自分に言い聞かせることだけを目を見開くことと勘違いしているに過ぎないのかもしれません。
皆さんはどうですか?

「死ぬまでに何かしらやり遂げたい」
「人々の記憶に、記録に残るようなことをやりたい」
そのような感情に苛まれることはないですか?
私は頻繁にあります。
しかし何をやったらいいのか未だに解っておりません。
ビッグな事をやろうにも、それは誰かの真似事だったりするのです。
金儲けの手段だったりするのです。

其れに気付く度に、自分の儚さ、愚かさに一々落胆するのです。
いったい自分は何がしたいのだろう。
何をする為にこの世に生を受けたのだろう。
自分にしかできないこととは何なのだろう。

其れを考える毎に開眼思考が強くなります。
開眼し、己の見えていなかったものを発見し解剖する。

見えていないものは多いと思いますよ。
見えていないと言うよりも自分自身で、本能レベルかもしれないですが
自然に目を伏せてしまっている状態。
そして収まる箱に収まってしまっているのです。
消極的に成り下がってしまっているのです。

苦痛ですよね。

自分の不甲斐なさ、暗愚さに気付くと、やれんね。
やれんよ。全く。

そこで開眼しろと。
目の前の有りの儘を受け入れ、そして己の想定外の事実をもっと多く実感しろと。
在り来たりでは所詮其処止まり。
他人の真似事やマネー事では、これまでの繰り返しに過ぎないではないか。
これまでの社会、現実を見てきただろう。
何故万人が満足しない。
何故世界は混沌としている。
其れを崇拝し、其れを模範とし、また私は殺戮を繰り返すのか?
自ずと答えは見えてくるでしょう。
「そんなんは厭だ」という答えが。

厭だと思ってからがスタートです。
全てに妥協し、満足していては何も変わらない。
スタート台にも立てていない。
厭だと思えることについて建設的な考えを以て、一つ一つ打破していければ
最後には人類にとって明るい将来が待っていると。
全ての人間がアイデンティティーを持ちながらも共存できる、
そんな理想郷を求め模索していきましょうよ。

「できない」なんてやってもいないのにラインを引くのはナシにしませんか?
己のエルドラドを体感したことも無い人間が「無理だ」とか決めつけないで。
宇宙人を見たことも、探したことも無いのに「いない」と決めつけないで。
貴方は宇宙の全てを知っているのですか?

只、理想を現実にするやり方なんて知らないですよ。
私に向かって
「じゃあどうすればいいんだよ。言ってみろよ。」
なんて言うのはお門違いですよ。
自分で考えろ。阿呆。
人に頼るな。逆ギレするな。


覚醒のタイミングは必ず皆さんに訪れます。
その時期を逃すも逃さないも己次第。
その時期を引き寄せるも引き寄せないも己次第です。
自分の環境を変え、境遇を変え、其れを引き寄せる人もいるでしょう。
其のような人間が周りにいても引き留めないで欲しいのです。
彼らは彼らの考えを以て、眼を開こうとしています。
私、ましてや他人があれこれ口出しできる範囲外なのです。
彼を牛耳る権利は彼にしか無いのですから。


最後に詩を紹介します。



『足枷とは自分』


この世に墜ちた

その意味を問う

解りません

ただ

ただ一つ言えることは

私は

私なりに

世界に意味を持たせるために

生きていると言うことだけ


   ⓒK "The International" Katoh 1999年)


私に、そして皆さんに宿題です。
今まで考えてもみなかったようなことを考えてみてください。

己の居場所が、存在意味が。



Wednesday, November 09, 2005

噛む馬はしまいまで噛む

さて皆さん、如何お過ごしでしょうか?
自由奔放、自由気儘に好き勝手、やりたいようにやっていますか?
若しくは何かしらの怒りや憤りを胸に秘め、
悶々とネットサーフィンしてたら、
偶々目に止まった「極東最前線」なんて言う不可思議且つ不快なタイトルのこのページに、
その内なる怒りを開放せざるを得ず、
「なんやこのカトウとか言う畜生は。鬼畜め。このコケシドールめが。」
と吐き捨て、気分が悪くなったので酒を煽りながら、それでも未だ読むことを止めずに
「畜生、畜生」と私の不憫さ、傍若無人さにまた怒ってしまったりしていますか?

すいません。被害妄想でした。

ついついやっちゃいますよね。
行きすぎた被害妄想。えへへ。

しかし、己の癖ってなかなかに怖いものだと感じます。
自分ではあまり気付かないものですよね。
他人がよくやってる仕草、言動に対して注意を促すと

「あんたも同じ事よくやってるで」
とか言われる始末。えへへ。

それが誰にも害の無い癖ならば被害は少なくて済むのですが
外部に対して被害、影響が大きい癖ならば問題です。
有害物質と認定されます。政府にではなく私に。えへへ。

そういった癖とか、自分から反射的に発信してしまう悪影響を改善したいと思わないですか?
いや、誰も何も感じないような癖なら直さなくても構いませんよ。
独りトイレに籠もり、引っ越しなどで大活躍のプチプチを潰すのが癖とか
街で目に入る数字の全てを足算する癖とか
教室で前の席の女の子の透けたブラウス(夏)から微かに見えるブラジャーから全裸を想像する癖とか
カップ焼きそばのソースは半分しか入れない癖とか
これらは無害だと私は思っております。
これらはアイデンティティーの範囲内だと。
只、有害無害をジャッジするのは、世界市民である皆さんです。えへへ。

薄ら笑いが止まんねぇや。
えへへへへ。

ビールを飲んで一寸落着。

客観視して己を観察できるように成りたいですよね。
私は常々自分を客観視することを心がけているのですが
やはり未だに癖を指摘される事が屡々あります。
難癖つけられると言うことは、誰かが私の癖で迷惑被っているのですね。
未だ客観視の極みまで達観していないのですね。
嗚呼、己の成長に問う。

『君は未だ導かれようと思っているのか』By Katoh The Anarchist


道は己で切り開くものですよ。
出来れば誰の手も借りたくない。
其れが成長の速度を上げる鍵です。

孤独に打ち勝つのも試練ですよ。
孤独を生ききる By 瀬戸内寂聴

孤独孤独と大勢の人々が口にしますが、
完全に独りになるなんて極端な話ですよね。
無茶な話ですよね。
何処行ったって誰か存在しているんですから。

実は独りになる必要なんて無いんですよ。
人を頼るなってことですよね。つまりは。
そうですよね。寂聴先生。

今は意識して押さえていますが、すぐ極論で考えてしまうのも悪い癖ですね。
「生きるか死ぬかで、死ね」とか嗜虐してましたものねぇ。
いかんよ。私。俺。

みんなで仲良く手を取り合って、なんて言うのも極論なのでしょうか?
私独りで只、舞い上がって吹いているに過ぎないのでしょうか?
私みたいなエゴイストがこの社会秩序を乱してしまっているのでしょうか?
曖昧にしておく方が良いのでしょうか?
恒久の平和を求める者が莫迦を見るのでしょうか?
妥協することは必要悪なのでしょうか?
私は間違っているのでしょうか?

などと言ってても誰にも答えなんて求めていないですよ。
答えを出した奴は何様?王様?
自問自答は私の癖です。はい。

『無くて七癖、有って四十八癖』だと。
妥協すんなよ。畜生め。
嘗めるなよ。糞野郎め。

ICPOに警告。

俺を捕まえてみろ。

サノバビッチ。



Sunday, November 06, 2005

コスモポリタニズム

皆さんは自分が最高で最強だと思っていますか?
思ってますよね。思ってるでしょ。
どうなんや?DOなんやろか?

人間てナルシスティックな生き物ですよね。
自分の事が最高に好きで好きでしょうがない。
「悲劇のヒロイン思考」や「自己正当論」の言葉が意味を指すのはそういうことだと思います。

何もかも貴方が正しいですよ。
何もかも貴方の言うことに従いますよ。
私は低俗で従順な犬野郎です。
貴方が統治してくださるんですよね。
この国もこの私も、全人類貴方の正論に着いていきますよ。
だって貴方、最強ですものね。
最強でマーベラスですものね。
貴方万歳。

『貴方のその発言が世界に核兵器を持たせる』By Katoh The
Nucleus

貴方の一言が人を傷つけてしまっているかもしれませんよ。
貴方の一言が人を窮地に追いやってしまっているかもしれませんよ。

只、ナルシストであることが偏に悪いと位置付けるのはよろしくないですね。
何せ私もナルシストです。
皆さんは如何ですか?

全身が映る鏡で自分のボディラインをチェックしたり
サウナで汗をかいてテカった自分の身体を見てボディビルの真似事をしたり
夜に独りで酒を飲みながら「何て俺は寂しい奴なんだ」とか思ってみたり
かと思えば、次の日明るく出勤して「自分には影がある」とか思ってみたり
何時あるか解らない瞬間に備えて、満面の笑顔の練習を夜な夜なしてみたり
1週間1歩も家から出ないだけで「自分は引き籠もりだ。病気だ。」とか勘違いしてみたり
自分のマスターベーションを手鏡を使って様々な角度から観察したり…

の様なことがあるのではないでしょうか?
ありますよね?
あるでしょ?あるある。

しかしこのような自己陶酔型の人間というのは、他人に害が無い限り世界平和に貢献していると言えるのではないでしょうか?
他人に己のナルシストぶりを強要しだしてしまうと
自分と相手のバランスが崩れて、人間関係も崩れてしまう。
相手が自分に対して感じていることと、自分自身に感じる事というのは、やはり異なったものですからね。
ナルシストは結構ですが、それが絶対だと勘違いしないでほしいですよね。

ナルシズムとは独裁です。
己が絶対だと強く思ってしまったが故に、他人の意見が聞き入れられない。
視野を、聴野を狭くすることがどれだけ浅はかなことか。
そのまま成長することに何の意味があるというのか。

只、己が成長するに当たり、まず一番初めに必要になってくるのが
『自分を好きになること』なのも忘れてはいけない現実です。
自分を好きになってあげないと、前進しようとする意志すらも自分から逃げていってしまいますよ。
しかし好きになりすぎて他人の意見を迫害、抹殺してしまってはいけない。
世界のバランスはそうやって崩れていくものなのです。

そんなあんたにゃ世界は救えない。

たとえあんたが己を最強だと思っていても、
俺は最強だと認めてやらないぜ。

ファック・オフ


皆に気付かせる為の宣言として此処で言っておきます。
ダボダボのジャージ着たあんちゃんも
髪の毛の襟足だけを長く延ばし、そこだけ金髪の奴も
白いスーツに、花柄の開襟シャツ着た人間も
制服の裏ボタンが校則外の奴も
全員最強ではない。

かと言って私も最強ではないですよ。
私はまだまだ最低の部類に入る、愚民です。

只、私の成長は誰にも止められないし
ましてや止める権利など何処にもありません。

ちなみに私、最強なんて求めてませんよ。


最後に一句


泥濘を
求め彷徨う
梢かな


 ⓒK.Katoh(2005)


こんな偉そうな事ばかり書いていますが
実際は無類の体たらく。私。
成長云々言う前に
先ず己の生活から見直さねば。
インスタンティックラーメンばかりでは…



Thursday, November 03, 2005

Y(最後の警告)

睡眠過多で調子がでない。
疲労困憊、頭も痛い。
不死身の身体を欲しては
同じ事しかできないで居る。
嗚呼、嗚咽、又嘔吐。
私に春などあるものか。


人は己の成長過程に於いて、数々の分岐点を体験します。
私にも今後の人生に、分岐点を目の当たりにすることが無数にある(はず)。
寧ろ、分岐を求めて生活していると言っても過言ではないかもしれません。

友人が江戸に旅立つのを祝う会合が、昨日未明に執り行われました。
彼の分岐点はまさに今。
住む場所を変えるというのは、分岐でありリセットでもあります。
全く知らない人間の集団に自分という存在が突然混入する。
自分への前評判がない場所に行く。つまり
「自分のキャラクターを好きに作ってもよい」と言うことになりますね。
ワクワクしますよね。

可愛いキャラでいこうか、それともチンピラキャラでいこうか。
いやいや、今の時代は韓流キャラやで。韓流男前キャラ。
ん?まてよ。俺日本人やしな。そしたら無難にキムタクキャラ?
ん?まてよ。俺一重瞼やしな。今、肉体的コンプレックスを指摘したやろ。あかんで。俺。

とか何とか言ってても、結局は今現在と似たようなキャラが付くんですよねぇ。
しかし本気で変えたいと思っているなら変えることも可能ですよ。
きっと旅立つ彼はそのようなことは考えていないでしょうけども。

彼の存在価値、アイデンティティーは無限大です。

必ず全てがプラスの方向に向かって進んでいる道であると、
私は信じ、願っています。


話は変わりますが、皆さんは他人の幸せで笑えますか?
私はまだまだ未熟者で、100%喜べるかと言うとそうではありません。
やはり自分が幸せであることが絶対条件になっているように思います。
自分が満たされていないと、他人の事まで目配せできないのです。

何が幸福で何が不幸か、何て言うことは相対的であり、人間個々で違ってきますからとやかく言いません。
只、万人のその瞬間、刹那が幸福であればよいなと。
それが無限に連鎖していけばよいなと勝手に思っているわけです。

それがオポチュニスト、モラリスト等と世間では非難されることも屡々あります。
偽善者と称されることも屡々あります。
しかし私は本気です。本気と書いてマジです。
世間でどう罵られようが、粛清を受けようが、
私は貫き通しますよ。

『偽善行為すら出来ない貴様に、偽善者を笑う資格はない』By Katoh 2005 Style

貴方のその一撃が人を不幸にしていることに気が付きましょうよ。
貴方のその言葉の鉄拳制裁が、世界に戦争をもたらしていることに早く気づきましょうよ。

でも私も昔は
「自分の幸せより、他人の不幸を笑え」
みたいなスタイルでした。
凄くケツの穴がリトルで、且つ非道く醜い考え方ですよね。
世間と、社会と触れ合えば触れ合う程に考えは変わってきました。
他人を蔑ろにしてまで、己を幸せにしたいとは思わない。
洗脳、情報操作とは又違う、とても心地の良い変貌だったと私は感じております。

あれも分岐だったのでしょうね。

今後私は幾つもの分岐を体験すると思います。
背中を叩かれ、勢いだけで道を選択してしまうこともあるかもしれません。
只、分岐点一つ一つに存在意味があり、間違った道なんて言うものは存在しない。
どの道を選択しようが、必ず道は開けているし、又自分にとってプラスに成る可能性を秘めています。


突然ですが詩を紹介します。


『浮遊人』

自分の病気に

ついていけない

ほったらかして

辿り着いた先は

夢、また夢心地

居心地悪くて

今日も吐く


ⓒK.Katoh(2000年)


そして最後の分岐点に皆到達するのです。
最後の分かれ道は世界中の人間全てが同じ選択を強いられます。


最終分岐

『幸福だったか、不幸だったか』



Tuesday, November 01, 2005

急がないと先がない

テロ。正式にはテロル。
一般には
心理的恐怖心を引き起こすことにより、
政治的主張や理想を達成する目的で行われる暴力行為のこと。
またはその手段を指します。

私は自分自身にテロルを起こしてやろうかと考えています。
語弊を招く前に言っておきます。
『私は誰にも害を与えるつもりはありません』

自分自身にテロルとはどういう事か。
自傷行為や自殺行為の事を言っているわけではありません。
自分自身を窮地に追い込む事によって、
新たなる自分を見いだし、着実に一歩前進しようと言う
極めて強引な、且つ無茶なやり方だと思います。

自分自身を改革したいという気持ちを表すのに最も近い表現として
テロルと言う言葉を用いているだけなので、
危険思想だのノータリンだの言われると心外です。
言いたいお方は私に聞こえないように言え。

『俺を罵れ!俺を冒涜しろ!俺を侮辱しろ!』By Katoh The
Confession

では実際、どうやって自分自身にテロルを実行するか。
それが一番難しいですね。
自分に衝撃を走らせるような事象を、自分自身で実行しようと言うのですからね。
だいたい自分のやる事なんて見当ついてしまいますからね。
そこで、自分のボキャブラリーを遙かに超越した何か…。

作家の町田康先生の本の一節中で

 自分の頭蓋骨を半分取り外し、
 取り外した部分に透明のケースを付けスケルトンにし、
 中の脳が見えるようにした

というショッキングな奴の話がありました。
そいつも日常生活にテロルを起こしたかったのです。
その結果は大成功でしたが、やはり自分の身体を改造した代償は大きかったようでした。

私にはそれはちょっと真似できねぇなぁ。
何て思っていますが、そういう
「自分には真似できない」
みたいなことを敢えて実践することが自分自身に対するテロルなのではないでしょうか。
頭半分スケスケなのも悪くないかもしれませんね。
まさに明け透けな奴。

学生時分の頃、誰もが一度はヤンキーみたいな奴に憧れを抱くと思います。
私もそんなんで頻繁に大人に叱咤罵倒されていました。
俗に言う反社会的なムーブメントを勝手に起こしていたときに
友人の父親が私に
「ヤンキーみたいな中途半端なもんになるくらいなら、ゲリラになれ」
と言ったのを今になって思い出します。

極端ですよね。
でも今になって解るのです。
中途半端、つまり煮え切らない存在を成就して得るものはまた中途半端であると。

ゲリラになることも、頭を半分スケルトンにすることも
つまりは一緒なのですね。
極端な存在に成ることで、自分に対する社会の動きも極端になる。
頭半分スケルトンが自分の隣に座っていたら、それだけで驚異です。
私なら避けます。
自分への風向きを強風にすることで、自分を追い込み、驀進しろと
あの日の友人の父親は言いたかったのではないでしょうか。
それとも軽いジョークのつもりで言ったか。
有力なのは後者です。

結局自分にテロルを起こすためにも気合いなのですよ。
気合いが物言う世の中です。
気合いで何とかなる。

自分自身の改革、テロル。

皆さんもノリで頭骸骨半分スケルトンにしてみては如何?ウフフ。



今日のBGMは

・ロマンチスト/The Stalin
・生きてる自分を誰が知っている/鉄アレイ

の無限リピートでした。